中西学のレスラー人生ヒストリー。レジェンド集合のなかリングを去った (2ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi
  • photo by Hiraku Yukio/AFLO

 1995年3月に若手レスラーの登竜門である「ヤングライオン杯」で優勝すると、同年7月にはWWF(現在のWWE)と人気を二分していたアメリカのプロレス団体「WCW」に参戦した。「世界に通用するリングネームを使え」というマサ斎藤に、映画監督の黒澤明の名前を用いた「クロサワ」というリングネームを与えられ、ヒールのレスラーとして躍動した。

 翌年に凱旋帰国し、1997年には小島聡と組んで「IWGPタッグ王座」を初戴冠。順調にキャリアを重ねていったが、シングルではなかなか結果を出すことができなかった。1999年のG1クライマックス決勝戦で、武藤敬司を破って初優勝を果たすも、「IWGPヘビー級王座」のベルトを手にするまで、それから約10年の月日を要した。

 2009年5月6日、それまで5度失敗していたヘビー級王座への挑戦が急遽決定。相手は当時32歳の"100年に1人の逸材"棚橋弘至である。誰もが棚橋の勝利を予想したが、最後にリングで勝ち名乗りを受けたのは42歳の中西だった。6度目の挑戦で悲願の初戴冠を果たした姿を、実況席から見ていた中西の"恩師"山本小鉄は人目をはばかることなく涙した。

 しかし、2カ月も経たずにそのベルトを棚橋に奪還されると、2011年6月4日のタッグマッチで悲劇が起こる。中西が井上亘のジャーマンスープレックスを受けて動けなくなり緊急搬送。「中心性脊髄損傷」と診断され、一時は動くことすらままならなかった。

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