2019.10.21

井上康生、シドニー五輪金メダル秘話。
母と一緒に立った表彰台

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi
  • photo by PHOTO KISHIMOTO

 だが、苦しい状況を救ってくれたのも母だった。亡くなる10日ほど前、井上に食べ物などを送る際に、荷物に入れ忘れていた手紙があった。それを思い出した父・明さんが、その手紙を、全日本学生柔道団体戦に出場するために葬儀を終えてすぐ東京に帰る井上に渡した。

 母からの最後の手紙は、息子を心配する気持ちが溢れていた。不調に陥って自分の柔道がわからなくなっていた井上に、「柔道を好きで好きでたまらなかった、小さい頃の気持ちを思い出してほしい。すべて、初心に戻って頑張ってください」と記してあった。

 気持ちを取り直した井上は、合宿で自信を取り戻す練習をすることができた。そして世界選手権の初舞台に、兄・智和も練習パートナーとして同行してくれた。

 その世界選手権の試合後、井上はこう話していた。

「今回の勝因は、自分の実力以上に母が助けてくれたことです。観客席では父がずっと母の遺影を持っていてくれましたが、1回戦から同じところを通っていたのに、僕の視線には一度も入らなかった。でも、決勝の時だけは『よしッ』と思って顔を上げたら、真ん前に母の写真が見えたんです。

 その途端に気合いが入って、決勝に対する怖さがなくなりました。『一本を取るんだ』『優勝するのは俺だ』と強く思えました。だから今回は、母が助けてくれたという気持ちしかない。兄も付き人をやってくれたので、その意味では家族で一丸になって取れた優勝だと思います」

 世界選手権は母が獲らせてくれた金メダルだったなら、今度のシドニー五輪は、自分が亡き母に金メダルをプレゼントする大会にしなくてはいけない。そう思ったからこそ、一緒に表彰台へ立ち、その喜びを分かち合いたかったのだ。

 父の明さんはこう話した。

「優勝が決まって大喜びした瞬間に、遺影を落として表面のガラスが割れてしまったんです。でも、それがよかったんですね。ガラスがあったら危険物として表彰台には持っていけなかったようですから。ああいうことをできるように、神様が準備してくれたのだと思います」