鈴木みのる、最強レスラーへの道程は「猪木の敵をとる」から始まった (3ページ目)

  • 尾崎ムギ子●文 text by Ozaki Mugiko
  • photo by Sportiva

 高校3年生の時、国体2位という輝かしい成績を収めた。しかし鈴木にその話を聞くと、渋い顔をした。「その話は、一生、したくもない」――。2位なんて、成績でもなんでもない。優勝できなければ、なんの意味もない。いまでも思い出すだけで、悔しさで胸が張り裂けそうになるという。

「でも踏ん切りつきましたよ、レスリングやめようって。大学へ行ってオリンピックを目指すという環境は整っていましたけど、踏ん切りつきました。プロレス一本でいこうと」

 卒業後、新日本プロレスの入門テストを受け、入団。強くなりたかった。アントニオ猪木のようになりたかった。前田日明という新たなるスターにも憧れた。その向こう側に見えているものは、"プロレスの神様"カール・ゴッチという存在。しかし中学時代から憧れてやまなかった新日本プロレスをわずか1年で退団し、新生UWFに移籍する。

「移籍した一番の理由は、UWFの人たちが新日本を辞めたからですね。藤原さんにいつも練習をつけてもらっていて、その藤原さんや前田さんたちが辞めてしまった。そうこうしているうちに、新日本はUWFと差別化を図ろうとして、おかしな方向に行き始めたんです。試合中に逆十字固めを出しただけなのに、『お前はUWFにかぶれているのか?』と言われたり。片っ端から先輩に目をつけられましたね」

 1991年、UWFはプロフェッショナルレスリング藤原組、UWFインターナショナル、リングスの3団体に分裂。鈴木は迷うことなく、藤原組を選んだ。藤原と一緒にプロレスをやりたかった。藤原抜きでプロレスをやることは、まったく考えられなかった。高田延彦にも可愛がられたが、藤原に対して特別な敬意と憧れがあった。

 藤原組の顧問になったのは、カール・ゴッチ。新日本の人間も、UWFの人間も、ゴッチのことをよく言う人間は少なかった。「ゴッチなんか間違っている」「厳しいことばっかり言って、適当だ」「本当は強くなかったんだ」――。そんな話ばかり聞いていたが、実際、側にいるとゴッチの本当の強さがわかった。毎日10時から16時まで、一緒にトレーニングをする。そんな生活が楽しくてしかたなかった。

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