過激デスマッチで限界→引退も・・・
すぐに復帰で大仁田厚に吹いた逆風

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Hiraku Yukio/AFLO

 当日は第1試合が始まっても空席が多くて心配していたんですけど、途中からどんどん埋まっていって。新日本の試合を見たファンが、はしごして見に来てくれたんです。そこまでは計算していなかったからうれしかったですね。結果、3万人のファンで会場が埋め尽くされました。

 その試合も大きな反響がありましたが、旗揚げから1日も休むことなく走り続けたことで、オレの体は悲鳴を上げていました。疲れは抜けないけど、それでも休めない。自分の団体だから、休めばファンにもプロモーターにも迷惑がかかると頑張っていましたが・・・・・・とうとう限界が来てしまいました。

 1993年2月16日に鹿児島での試合中に呼吸がうまくできなくなって、目がぐるぐると回り出したんです。そして試合後に倒れて救急搬送。体調はその前日から悪かったんですが、風邪ぐらいにしか思っていなかった。しかし実際は、扁桃腺に膿がたまって気管を圧迫していたんです。すぐに入院して膿を取り出したものの、扁桃腺の細菌が肺に入って敗血症を併発し、一時は危篤状態になりました。

 この時のことは記憶にないんですけど、仲間たちと食事に入った店のトイレのドアを開けると川が流れていたり、シベリアの草原で熊に殴られたりといった夢を見たんです。臨死体験って言うんですかね。とにかく不思議な体験でした。

 その危機から奇跡的に回復して、入院から約1カ月後には退院できました。リングにも復帰しましたが、その時に「あぁ、もう引退だな」と思いました。このままデスマッチを続ければ、ファンに"死"という場面を見せることになると思ったんです。

「過激ではあっても、グロテスクなものをリングで見せてはいけない」という考えがオレの中にはあるんですけど、「このまま続ければその一線を越えることになる」と思った。だから、1994年5月5日の川崎球場で天龍源一郎さんに負けた後に、1年後に引退することを発表しました。

 引退試合の相手は後藤しかいないと思っていましたが、直前になって彼がFMWを退団してしまった。今でも、その原因はわかりません。オレが引退した後のFMWは、後藤とハヤブサの"2枚看板"でいくべきだと考えていた。将来的なエースはハヤブサだと思っていましたが、後藤がそういうオレの考えを周囲の人から聞いて誤解したのかもしれない。ただ、恩人でもある後藤に対してオレが嫌がらせをするとか、そんなことは絶対にありえないし、なかった。

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