過激デスマッチで限界→引退も・・・すぐに復帰で大仁田厚に吹いた逆風 (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Hiraku Yukio/AFLO

 実際の試合では、オレは6回も爆発を体に受けました。最初は驚いていた観客が、しばらくして「もうやめてくれ。わかったからやめてくれ」って泣いていたんです。それまで、「もっとやれ」という声は聞いたことがあったけど、「やめてくれ」っていうのは初めてだった。

「邪道」と言われようと、自分たちが信じた道を貫けば何かがファンに伝わるという確信を得た試合でした。この試合でオレは、1990年プロレス大賞のMVPとベストバウトを獲得した。「邪道」なオレたちがプロレス界に認められたことは、本当にうれしかったですね。

「デスマッチ」は過激さを増していった「デスマッチ」は過激さを増していった 電流爆破をやった影響力は大きかったですよ。それまで声がかからなかったテレビ番組から出演依頼が殺到して、ドキュメンタリー番組でも紹介された。これは、テレビ中継がないFMWにとって、知名度を上げる大きなきっかけになりました。

 当時は、「テレビ局が付いていないと団体は運営できない」と言われていた時代でしたから、地方巡業がある日でも昼はテレビに出演して、夜は試合をやった。今思えば、殺人的なスケジュールをこなしていましたね。すべてはFMWの知名度を上げるためで、テレビで稼いだギャラは全部、団体の資金に回していました。

 ただ、団体が大きくなるにつれて社員もレスラーも増えていく。さらなるビッグマッチが必要だと思い、1991年9月23日に川崎球場で試合をやることを決断しました。ある地方巡業で選手を集めた時に、「今度、川崎球場で試合をするぞ」と伝えたら、"FMW第3の男"であるサンボ浅子が、「川崎球場の駐車場ですか?」って聞いたぐらいだから、選手たちも本当にできるとは思っていなかった。

 なにせ、3万人が入る会場ですからね。オレ自身も満員にできるかどうかはわからなかった。しかも、同じ日に業界最大手の新日本プロレスが横浜アリーナでビッグマッチを開催することが決まったんです。試合開始時間は、新日本は昼で、うちが夜だったんですが、「同日興行ならもうダメだ」とも思いましたよ。

 それでも、賽は投げられたと腹をくくりました。オレの相手はやはり後藤でしたが、「有刺鉄線"金網"電流爆破デスマッチ」という、電流爆破と金網を組み合わせた初めての試合形式にしました。

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