7度目で本当の引退? 大仁田厚はジャイアント馬場に一度だけ反発した

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Hiraku Yukio/AFLO

大仁田厚の邪道なレスラー人生(1)】

有刺鉄線デスマッチなどで一世を風靡した大仁田厚有刺鉄線デスマッチなどで一世を風靡した大仁田厚 プロレスラー・大仁田厚(60歳)は、2017年10月31日、東京・後楽園ホールで7度目の引退試合を行なった。

 大仁田は、自らが設立したフロンティア・マーシャルアーツ・レスリング(FMW)では過激なデスマッチ路線で"涙のカリスマ"として絶大な人気を博したが、一方で、引退と復帰を繰り返したことで「邪道」とも呼ばれた。

 引退に際し、「プロレスラーはもうやりません」と宣言した大仁田が、波瀾万丈のレスラー人生を振り返る。

 馬場(正平)さんが亡くなったのが1999年1月31日ですね。あれから19年かぁ。不思議なんですけど、自分の中ではいまだに馬場さんが亡くなったっていう実感がないんです。今もどこかで生きているような、見守ってくれているっていう感じなんですよ。それほど、オレにとって存在が大きい人。それが馬場さんですね。

 初めて会ったのは、オレが15歳の時。高校に入学したんですけど、すぐに中退して徒歩で日本一周することを決意したんです。ところが、神戸まで歩いたところで長崎の実家が火事になって、オヤジから「戻ってこい」って言われて長崎に帰って。そしたら、オヤジの知り合いにプロレスのプロモーターがいて、「お前、プロレスラーになるか」ってオヤジに聞かれたんです。幼いころから海外に行くことが夢だったから、「レスラーになれば外国に行けるな」と思って、自分も決意したんです。

 オヤジとプロモーターの人に連れられて観にいったのが、1973年10月9日に蔵前国技館で行なわれた全日本プロレスのビッグマッチでした。その試合前に、控え室にいた馬場さんを訪ねたんですが、初めて見る馬場さんは『ゲゲゲの鬼太郎』のぬりかべのようにデカくて。「この世に、こんな大きい人がいるのか」ってビックリしましたよ。あいさつすると、「坊や、やれるか?」って聞かれて、「はい! やりたいです」って答えて、それで入門が決まりました。

 そのまま、東京の目白にあった全日本プロレスの合宿所に入って、翌日から馬場さんの付け人として地方巡業に出ました。馬場さんは普段は物静かで読書家で、言い聞かされていたことは「ウソをつくな」ということだけでした。

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