【国際プロレス伝】鉄人ルー・テーズは一発でグレート草津を失神させた (2ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by Nikkan sports/AFLO

 この時期、テーズはプロレス界で「闇の帝王」と恐れられていたジョージ・トラゴス、「伝説の関節技師」レイ・スチール、「絞殺しの鬼」エド・ストラングラー・ルイス、そして来日して東京・講道館を震撼させたアド・サンテルなどから、オーセンティックレスリング(正真正銘のレスリング)である「ストロングスタイル」を徹底的に叩き込まれた。また同時にプロとして客を呼び、興奮させることの大切さを学んだことがプロレスラーとして一生の財産となったと、前述の自伝でも語っている。

 1937年12月29日、ルー・テーズは21歳という驚異的な若さでNWA世界ヘビー級王座を獲得すると、以後トータルで12年8ヵ月にわたってNWAチャンピオンとして君臨。その間、数々のタイトルを奪取するとともに、1948年7月20日にワイルド・ビル・ロンソンを破ってから1955年5月22日にレオ・ノメリーニに反則負けするまで、引き分けを挟んで936連勝という不滅の大記録も樹立し、史上最強のプロレスラーと崇められた。

 そんな鉄人と日本プロレス界との関係は、やはり「日本プロレスの父」力道山との好勝負から始まった。

 1953年にハワイ・ホノルルで両雄は初めて対戦したが、このときはルー・テーズがリバース・スラム(パワーボム)でKO勝ち。続く1957年にはテーズが来日し、10月7日の東京・後楽園球場と10月13日の大阪・扇町プールで2戦したが、いずれも引き分け。打倒ルー・テーズに燃える力道山は1958年8月27日、ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムで再戦を果たし、得意の空手チョップを炸裂させて王者テーズを破り、ついにインターナショナル・ヘビー級王座を掴み取った。

 その後、1966年2月28日にルー・テーズはジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。1本目はバックドロップで奪ったが、その後に逆転されて1-2で敗退する。テーズからピンフォール2本を奪って王座を防衛した馬場は、力道山亡き後、日本プロレス界を背負って立つエースへの道を駆け上がっていった。

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