【国際プロレス伝】全日と契約しても国際リングに上がったガニアの男気 (2ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO

「吉原社長とガニアは相当深い絆(きずな)で結ばれていたんでしょうね。国際プロレスはTBSの中継が終わってしまい、ようやく東京12チャンネルの月曜夜8時からの中継がスタートして2ヵ月目。そんな一番大事なときに、ガニアとロビンソンの黄金カードが国際プロレスで実現できたわけですし。国際プロレスとAWAの団体同士のビジネスが終わってからも、ガニア自ら、そして彼の率いるトップレスラーたちが国際プロレスのリングに上がってくれたのですから」

 ガニアはジャイアント馬場と戦った4ヵ月後、AWA世界ヘビー級チャンピオンのまま引退する。以後は団体の経営に勤(いそ)しみ、1980年代後半からは新日本プロレスと提携したが、次第に他団体の勢いに押されて1991年、AWAは崩壊。ガニアはプロレス界から離れることになり、そして2015年4月27日、死去が伝えられた。

「亡くなられたのは89歳ですか。吉原社長やラッシャー木村さん、グレート草津さん、ジャイアント馬場さんらと比べて、身体を酷使してきたプロレスラーとしては大往生ですかね。晩年、認知症を患っても、最期は娘さんたちと暮らしていたそうですし。

 ガニアはトップレスラー兼プロモーター。自身が現役の間はAWAの会長職を他の人に務めさせていましたが、事実上のオーナーでしたよね。引退後は経営に専念されていたようで。一方、吉原社長は現役を引退し、日本プロレスで取締役営業部長をされた後、国際プロレスを立ち上げた。おふたりは立場こそ違いますけど、僕はお互い共通するところがいくつもあるなと思うんです。

 吉原社長はそれまでアメリカ一辺倒だった日本のプロレス界で、苦労されてヨーロッパルートを新たに開拓された。ガニアも社長が連れてきたモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)やビル・ロビンソンをアメリカに引っ張り、ヨーロッパ出身のレスラーがアメリカやカナダのリングで活躍する道を切り拓いた。

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