【国際プロレス伝】大巨人アンドレは機内でビール100本を飲み干した (3ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by Getty Images

 一方で、1972年の「第4回IWAワールド・シリーズ」にも出場するために来日。決勝戦でストロング小林に敗れて準優勝に終わったが、同時期にイワン・バイテンとタッグを組んでサンダー杉山&ラッシャー木村組のIWA世界タッグ王座にもふたたび挑戦している。

 1973年からリングネームを変更した「アンドレ・ザ・ジャイアント」はWWWF(WWFを経て現WWE)と契約。だが、専属契約ではないため、AWAやNWAのリングでドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ニック・ボックウィンクル、リック・フレアー、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク、ハルク・ホーガンなど日本でお馴染みのトップレスラーとも激突する。それと並行して、1対2あるいは1対3のハンディキャップマッチやバトルロイヤルも積極的に行ない、人気・実力ともにトップレスラーに上り詰めた。

「ロシモフ――我々は今もそう呼んでしまいますが、WWFに移ってからは世界中を周り、相当稼いだでしょうね」

 事実、アンドレ・ザ・ジャイアントは「年俸40万ドル(当時約1億2000万円)、世界一稼いだプロレスラー」として、1974年のギネスブックに認定されている。

(つづく)
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