【国際プロレス伝】失意のカール・ゴッチは
「国際のリング」で蘇った

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO

「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」のテクニックを身につけたカール青年は1959年、北アメリカへ進出。NWAイースタンステーツ・ヘビー級王座を獲得すると、NWA世界ヘビー級初代チャンピオンに認定された「近代プロレスリングの父」フランク・ゴッチにあやかり、「カール・ゴッチ」と改名した。

 そして1961年4月、ゴッチは日本プロレスのマットに上がるために「カール・クライザー」のリングネーム(アメリカ進出当初に名乗っていたカール・クラウザーではなく、新聞やパンフレットなどではクライザーと表記)で来日。5月1日、大阪府立体育館で行なわれた「第3回ワールドリーグ戦」の初戦の相手となった吉村道明にジャーマン・スープレックスを鮮やかに極(き)め、観客の度肝を抜いた。また、同シリーズでは両者リングアウトながら、力道山とも対戦している。

 その後、アメリカ・オハイオ州へ戻ったゴッチは、1962年にドン・レオ・ジョナサンを破ってAWA世界ヘビー級王座を奪取。しかし、ルー・テーズには通算9回もNWA世界ヘビー級チャンピオン獲得に挑むも、その王座は最後まで奪えなかった。その結果、「無冠の帝王」と呼ばれるのだが、ルー・テーズはカール・ゴッチを「自分を一番追い込んだライバル」と評している。

 1967年11月、ゴッチはふたたび来日して日本プロレスのコーチに就任。「新春チャンピオン・シリーズ」に特別参加し、ジェリー・ロンドンやケン・ホーリスを破って一旦帰国するが、1968年1月に3度目の来日をした後は東京・恵比寿に移り住んだ。

 その目的は、渋谷のリキ・スポーツパレスに開いた「ゴッチ教室」で若手にプロレスの基本を徹底的に叩き込むため。さらにゴッチは、試合会場でも公開トレーニングマッチを行なった。アントニオ猪木がゴッチからジャーマン・スープレックスや卍固めを伝授されたのは、この時期である。

 1969年5月、日本プロレスとのコーチ契約が終わったゴッチはアメリカに帰国したものの、テレビが普及してショーアップされたアメリカンプロレスと、彼のヨーロッパ仕込みのストロングスタイルは相入れず、プロモーターから敬遠されるようになってしまった。それでも、自らのスタイルを変えてまで迎合することを嫌い、プロレスから離れハワイへ移住した。

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