【国際プロレス伝】阿修羅・原の身体能力にアニマルは度肝を抜かれた (3ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO

 覆面レスラーとして試合経験を積んだ後、原は1978年6月29日の大阪府立体育館において素顔でデビューを果たす。相手を務めた寺西勇は、「潰してはいけないし、甘やかしてもいけないし。それなりに苦労した試合」とのちのインタビューで述べているが、結果は15分時間切れ引き分け。どんな相手でもしっかり試合を成立させる寺西を起用したところに、国際プロレス首脳陣の狙いが察せられる。

 その4日後、早くもカナダ遠征に出発すると、「ファイティング・ハラ」のリングネームでマットに上がり、わずか2戦目で英連邦ジュニアヘビー級王座を奪取。さらに当時の西ドイツにも転戦し、12月に日本に帰ってきた。そして帰国後、国際プロレスの納会で近鉄時代から支援してきた作家の野坂昭如から「阿修羅・原」と命名される。

 国際プロレスの次代を担うエースとして期待されて順調に育っていった原は、1979年5月6日にミレ・ツルノからWWU世界ジュニアヘビー級のベルトを奪うと、その後もジプシー・ジョーやダイナマイト・キッドの挑戦を跳ねのけて、その王座を死守。国際プロレスのビッグ大会に参戦したニック・ボックウィンクル、バーン・ガニア、ディック・ザ・ブルーザーなど大物レスラーとのシングルマッチも組まれるようになっていった。

(つづく)
【連載】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

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