【国際プロレス伝】ラッシャー木村への弔辞。涙の「気合ダァ」10連発 (2ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by Nikkan sports/AFLO

 ラッシャー木村は角界から日本プロレスに入門後、東京プロレス、国際プロレスと移り、国際プロレス崩壊後は、「国際軍団」として新日本プロレスのリングで活躍した。その後、第1次UWF結成に参加。全日本プロレスでは国際プロレス出身の剛竜馬、鶴見五郎、アポロ菅原と「国際血盟軍」を結成したものの、ジャイアント馬場が死去すると、三沢光晴らとプロレスリング・ノアを旗揚げする。合計7団体を渡り歩き、還暦を迎えた後も現役を続行。ジャイアント馬場を抜く当時の日本人最高齢レスラーの記録を打ち立てた。

 そして、2004年7月10日、「体力の限界、これ以上は関係者に迷惑をかけられない」と、ノアの東京ドーム大会にビデオレターを送って、引退を表明した。

「木村さんが40年間、63歳まで波乱万丈で数奇なプロレス人生を続けられたのは、誰からも愛される人間性だったからでしょう。

 それにしても、あれだけしゃべらなかった人が、晩年、全日本プロレスでマイク・パフォーマンスをしたでしょ。不思議ですね。人間なんて、わからない」

 ラッシャー木村のマイク・パフォーマンスは殺伐とした会場の雰囲気をほのぼのとさせ、ファンは大笑い。人気を集め、木村の話を聞きに会場を訪れ、テレビ中継を楽しみにしていたファンも少なくなかった。

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