【国際プロレス伝】猪木の髪を切る暴挙。ファンの憎悪は頂点に達した (3ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by Getty Images

 また、僕が生まれ育った浜田市の浜田城跡には、司馬遼太郎さんが書かれた『浜田藩追懐の碑』というのが建っていまして、そこには次のような一節があるんです。

『石見國は、山多く、岩骨が海にちらばり、岩根に白波がたぎっている。石見人はよく自然に耐え、頼るべきは、おのれの剛毅と素朴と、たがいに対する信のみという暮らしをつづけてきた。石見人は誇りたかく、その誇るべき根拠は、ただ石見人であることなのである』

 祖父は、まさにそんな石見人の気質を受け継ぐ、剛毅(ごうき)を絵に描いたような人物だったのでしょう。母はそうした祖父のことを話し、勝負の世界で生きていかなければならない僕を励まし、勇気づけようとしてくれました。母にしてみれば、こんな小さな身体で二回りも、三回りもデカい外国人レスラーと戦う僕が不憫(ふびん)に思えたのかもしれません」

 そして迎えた1981年10月8日、新日本プロレス・蔵前国技館大会。ラッシャー木村が1975年6月6日にアントニオ猪木へ挑戦状を叩きつけてから、実に6年の歳月を経て、新日本プロレスと国際プロレスのエース対決が実現した。

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