【国際プロレス伝】「猪木、馬場より実力は上」と鉄人ルー・テーズも認めた (2ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by Nikkan sports/AFLO

 国際プロレスで女子部がスタートしたのも、あの年(1974年)でしたね。解散した日本女子プロレスから移ってきた小畑千代さん、佐倉輝美さん、千草京子さんがいました。

 IWA世界ヘビー級王座はストロング小林さんの後、一度はマイティ井上さんがチャンピオンとなりましたが、1975年に木村さんがマッドドッグ・バションとの金網デスマッチで顔面血だらけになりながら、逆エビ固めを極(き)めてチャンピオンになった。その後、木村さんは井上さんの挑戦を退け、アントニオ猪木さんやジャイアント馬場さんへの挑戦を表明したりしました。

 木村さんは本当に強かったですね。ウエイトトレーニングもやっていて、ベンチプレスなんて200kgを上げていましたから。めったに出しませんでしたが、関節技も得意で、ジャンボ鶴田選手との試合では腕ひしぎ逆十字などもやっていましたよね」

 1976年3月28日の全日本プロレスとの全面対抗戦でジャンボ鶴田と戦うための準備として、ラッシャー木村は2ヶ月ほど前からロシア(当時・ソ連)の国技「サンボ」を特訓。本場・ソ連でサンボを習得し、日本をはじめ西側諸国に普及させた"無敵のサンボ王者"ビクトル古賀(古賀正一)から、直々に関節技や投げ技を学んだ。普段は、「自分が目指す正統派のストロングスタイルに合わない」からと、関節技はほとんど使わなかったが、現役の間はずっとサンボの練習を続けていた。

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