【国際プロレス伝】ラッシャー木村、「金網デスマッチの鬼」と呼ばれた男 (3ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by Nikkan sports/AFLO

 1970年10月8日、国際プロレスは大阪府立体育館にて「日本初の金網デスマッチ」を行なったが、リングに上がったのはラッシャー木村だった。対戦相手はドクター・デス。反則攻撃OK、ノックアウトまたはギブアップでの決着。ノックアウトの場合、相手をピンフォールして3カウントを奪取後、タイムキーパーがカウントを30秒読み上げ、その後改めてレフェリーが10カウントを数えて相手がノックダウン状態のまま立ち上がれなければ勝ちとなるルール。木村は17分22秒、ノックアウト勝ちを飾った。

 すると2ヵ月後の12月12日、オックス・ベーカー戦でも金網デスマッチを挙行。この試合、東京・浅草の浅草寺から歩いてすぐの隅田川沿いにあった台東体育館で行なわれたことが、アニマル浜口のその後の人生を決めることになった。

「台東体育館というのは、ジャイアント馬場さんやアントニオ猪木さんがデビューし、国際プロレスも旗揚げ興行を行なった"プロレスの聖地"です。今、僕が住んでいる自宅からも、アニマル浜口トレーニングジムからも走って5分ほど。老朽化して30年以上も前に取り壊されましたが、そのあとにできた台東リバーサイドスポーツセンターの陸上競技場で、娘の京子とよくサーキットトレーニングをしました。

3 / 6

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る