無念の銅メダルでも、笑わない中村美里が最後に微笑んだワケ (2ページ目)

  • 柳川悠二●文 text by Yanagawa Yuji
  • photo by JMPA

 父・一夫氏が振り返る。

「小学6年生のときに、講道館杯に連れて行ったんです。すると『オリンピックに出たいと思ったら出れんじゃん』と簡単に言ったんです。『コイツ、何言ってんだろう』と思いましたが、本気で目指すなら僕らも気を引き締めて、美里の結果に一喜一憂するわけにはいかない。親が喜んでいる姿を見せたら、本人も満足しちゃいますから。だから中学2年生で全中に勝ったときも、『オリンピックを目指しているなら、日本一になったからといって、ヘラヘラ笑っていたらダメだぞ』と伝えました。それが、彼女が笑わなくなったスタートなんです」

 五輪を意識したその講道館杯を16歳で制した中村は、順調に代表への階段を上っていった。しかし、大人の身体になるにつれ、手の指まで細くなるような減量苦を味わうようになり、北京五輪の前年に52kg級に転向した。

 苦渋の決断ではあった。当時、こう口にしたこともある。

「(谷亮子から)逃げたと思われるのがイヤだった......」

 北京では当時まったく無名だった安琴愛(北朝鮮)と準決勝で対戦し、パワー柔道に技が出ず、「指導」のポイント差で敗れた。ロンドンまでの4年間は、北京の悔しさを晴らすことだけが目的だった。しかし、ロンドンでも初戦で安と対戦し、先に奪われた「技あり」のポイントを取り返せず、わずか1試合で畳を去った。

 直後、手術を決断したのも、父・一夫さんのアドバイスが決め手だった。

「引退後の人生を考えたら、治しておいた方がいい。あのままでは大好きなスノーボードだってできないわけですから」

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