【プロレス】「男と男の約束をしてくれ」。元番記者が語る長州力の素顔 (4ページ目)

  • スポルティーバ●文 text by Sportiva 原悦生●写真(長州)photo by Hara Essei

 PRIDEが出てきたときも、プロレスが負けるわけがないと言っていた。「PRIDEは一回一回の出来事に過ぎない、プロレスは大河物語としてストーリーを紡いでいって、クライマックスに持っていくものなんだ」と。長州にしか言えない言葉だ。

 自身はオリンピックレスラー(1972年のミュンヘン五輪に出場)であるにもかかわらず、レスリング出身者にはレスリングを忘れろ、相撲出身者には相撲を忘れろと指導。プロは別物なんだという確固たる信念があった。アントニオ猪木が格闘技に惹かれていったのと真逆で、むしろ長州はジャイアント馬場に近いものがあったね。お客さんとの勝負であって、勝ち負けを超えたものがプロレス、「ダイナミックなスペクタクルスポーツ」という言葉を使っていた。それが長州の「プロレス道」だったのかもしれない。

 ところが、総合格闘技が社会的ブームになり、オーナー猪木の司令で新日本の選手が総合のリングに上がるようになると、長州はすごくピリピリしていた。やがて現場責任者を外され、新日本を退社。2002年にWJプロレスを旗揚げしたけれど、この団体はいろんなすれ違いがあり、人間関係が崩れた。運命が狂ったと言うべきか。

 格闘技ブームの只中で「ど真ん中いってやる」と発言したのは、俺の最後の力を見せて全部ひっくり返してやる、俺がもう一回プロレスの凄みを教えてやるという気概に満ちていたと思う。だけど、時代は流れていく。

 WJの唯一のプラスの遺産といえば、今新日本で活躍している石井智宏を育てたこと。長州にとっては、石井はこれからもかわいい弟子だろう。

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