【ボクシング】日本人王者がラスベガスに呼ばれるためには? (3ページ目)

  • 原 功●取材・文 text by Hara Isao  矢野森智明●写真 photo by Yanomori Tomoaki

 また、1990年代に47.6キロ以下のミニマム級で22度の防衛を果たしたリカルド・ロペス(メキシコ)も、1万6000人収容のMGMグランド・ガーデン・アリーナのリングに何度か上がっているが、マイク・タイソン(アメリカ)などのヘビー級の試合の前座ばかりだった。ほとんど客がいないカーテンレザー(イベントの第一試合)で世界王座の防衛戦を行なったこともある。

 ロペスが不運だったのは、力量の接近した相手が同時代に皆無だった点であろう。メキシコや日本では特別な評価を受けるロペスも、100キロ超の屈強な大男たちの殴り合いを観に集まってくるラスベガスの一般ファンの前では、「メキシコからやってきた優れた小柄な前座選手のひとり」に過ぎなかったのだ。

 パッキャオも最初は、同様の扱いだった。アメリカでの出世試合は代役としてリングに上がったもので、そこでエキサイティングな試合をしたあとも、立て続けに強敵とのマッチメイクを強いられた。それらをクリアして初めて、プロモーターと正式な専属契約を交わすことができたのである。最初から億単位のギャラを保証されていたわけでないのだ。4年前、パッキャオを擁するトップランク社のボブ・アラム・プロモーターをラスベガスで取材した際、同氏は「日本人選手もパッキャオと同じ道を歩むことは可能だ」と話していたが、その前にクリアすべき高いハードルがいくつもあることを忘れてはなるまい。

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