大友愛がシングルマザー時に悩んだバレーと子育てのバランス「これが正解!はない」 (4ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari

――ロンドン五輪の出場権を獲得した、2012年5月からの世界最終予選では、まだプレーできなかったですよね。

「最終予選は観客席で見たんですけど、勝っても喜べませんでした。いろんな緊張感がある中でみんなが頑張っているのに、自分がそのチームにいないことが、すごく悔しかった。そのあと、もう一回手術したのでトレーニングも全然進まず、さらに復帰が遅くなる焦りが出てきました。

 それでも何とか五輪前には間に合わせて、最終の12人のメンバーに選んでもらったんですが......。最終予選で頑張っていた岩坂(名奈)や平井(香菜子)が外れてしまって。いきなりオリンピック本番だけ私が出場することに、2人も少なからず複雑な思いがあったはずです。だからこそ、絶対に結果を出さなければいけないと思いました」

――最終予選の前にはシングルマザーになり、ケガのリハビリもある中で子育ても苦労があったと思います。現役復帰時のように、ベビーシッターをつけたんですか?

「いえ、子どもは宮城の親戚にお願いして見てもらっていました。他の代表の選手は、休みが週に1日あるんですけど、私は前日の夕方に練習をあがらせてもらって、新幹線で仙台に行き、娘と1日半くらい一緒に過ごすという感じで。チームのみんなは受け入れてくれましたが、アスリートと子育てのバランスは、どのくらいにするのが正解なのかわからないまま続けていました。

 私は日本代表として、しかも大ケガを乗り越えてオリンピックに出るためには、完全に競技に集中する必要があると感じていたので"別居"の形を取ったんです。ただ、『子供と会う時間を取れないことは、母親としてどうなんだろう......』と悩んだことがあって。当時の日本代表のコーチだった安保澄さん(現・ヴィクトリーナ姫路GM)に相談したら、『常に一緒にいることだけがベストではないと思う。会えている時間にたくさんの愛情を注げれば、それが娘さんの幸せになるんじゃないか』と言ってくれて、気持ちを切り替えることができました」

――その時の選択に納得することができたんですね。

「『これが正解だ!』という絶対なものはなく、たくさん選択肢があっていいと思えるようになりました。周囲の人たちの協力もあって、私は選手でいる時と母親でいる時の自分を分けることができて、それがスイッチの切り替えにもなった。おかげでオリンピックに向けて邁進できて、物心ついた娘に大舞台でプレーする姿を見せることができました」

(後編:バレー部の娘に「比べられるのが嫌だったらやめていい」>>)

■大友愛(おおとも・あい)
1982年3月24日生まれ。宮城県仙台市出身。中学校からバレーをはじめ、仙台育英学園3年生の時に世界ユース選手権優勝を経験。2000年にNECレッドロケッツに入団し、日本代表にも選出される。2006年に一度は引退するも2008年に復帰し、2012年のロンドン五輪で銅メダル獲得に貢献。2013年に引退し、現在は4児の母。

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