高橋みゆきのバレー人生。愛称「ニッポンの元気印」には違和感もあった (2ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari

――代表に選抜されたあと、すぐにシドニー五輪の予選がありましたね。当時の監督は葛和伸元さんでした。

「最終予選(OQT)の時にいきなり呼ばれたんですが、『私でいいのかな』という感じでした。レギュラーではなくて、リリーフサーバーという立場でしたね。その最終予選の前に、ロシア遠征で試合に出た時はケチョンケチョンにやられて、全然通用しなかった。

 当時エースだった大懸郁久美(現:成田郁久美)さんは、私より2、3cm高いだけで同じようなタイプの選手だったので、『小さいなりにどうやって戦うか』といったことを教わりました。あとは、『このチームの中で、今の自分に何ができるんだろう』と考えた時に、リリーフサーバーとして流れを変えることしかできないと思って、ずっとサーブの練習をしていました」

――若手の頃は、あまり練習が好きじゃなかったとも聞きますが。

「若手の頃だけじゃなくて、ずーーーっと嫌いでした(笑)。それでも、嫌いなりに練習を重ねていくと、やらないと不安になってくるんです。自分の責任が重くなってくにつれて、嫌いとかは関係なくやらなきゃいけなくなってくる。さまざまなプレーを体に覚えさせるような感じでしたね」

――シドニー五輪のOQTで日本は敗退し、女子バレーボール史上初めて五輪出場を逃す結果になりました。その時の心情はいかがでしたか?

「OQTが終わってからは、周囲からいろいろ言われてバレーボール自体がちょっと嫌いになりました。Vリーグでも淡々とやっていたと思います。(2003年2月に)代表監督が柳本(晶一)さんになった時も、私は身長が低いから選ばれないだろうと。でも柳本さんは、私やテンさん(竹下佳江)など、身長が低い選手を選んで『チームの軸にする』と言ってくれた。それで、『もう一回、頑張ってみようかな』と思うことができました」

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