栗原恵が振り返る成長の記憶。
バレー大好き少女は挑戦を続けて強くなった

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari

高校時代は1年生からエースとして活躍 photo by Sakamoto Kiyoshi高校時代は1年生からエースとして活躍 photo by Sakamoto Kiyoshi――実際に大津中学校に入学してからはいかがでしたか?

「入る直前はワクワク感もあったんですが、人見知りだったので、周りとうまく付き合っていけるかという不安もありましたね。でも、実際に大津中に通うようになってからは、本当にバレー部の練習がハードで、家に帰ったらご飯を食べるだけですぐに寝てしまうという日々が続きました。バレーのレベルはすごく上がったと思うんですけど、それを実感する暇もないくらいに緊張感があって。そこで必死にやっていく中で、コートで感情を表現することに頭が回らなくなっていたかな、と思います」

――それでも中学を卒業後、三田尻女子高校(現誠英高校)では1年生からエースとして活躍しました。気持ちの面で変化した点はありますか?

「高校に入ったばかりの頃は、あまり表情を変えずにプレーしていたんですが、当時のバレー部のコーチだった田渕正美先生(現監督)から『ポーカーフェイスはあまり好きじゃない。そんな顔でプレーしちゃいけないよ』と言われました。そこで、ボールは使わずに、先生が『決まった』と言ったらガッツポーズをしてコートを走り回るという練習から始めたんです。すると自然に、感情が表に出てくるようになりました」

――インターハイ、国体、春高バレーの三冠を達成した頃は、"無敵感"のようなものがあったんでしょうか。

「それはなかったですね。どの大会でも決勝まで行くのが当然という感覚でしたが、『負けられない』というプレッシャーのほうが大きかったです。先生からも『ただ、目の前の試合に集中しよう』と常に言われていたので、余計なことは考えずに試合に臨んでいました」

――そして翌2001年には、高校2年生で全日本に初選出されます。その時の心境はいかがでしたか?

「正直、気が引けていました(笑)」

――「嬉しい!」ではなかったんですね(笑)。

「翌年の日米対抗で代表デビューするんですが、『え、無理です』という感じでしたよ」

――それでも、2003年のワールドカップなどで活躍し、その後も全日本で長くプレーすることになります。先日の引退会見では、現役生活で一番印象に残ったことについて、アテネ五輪出場を決めた2004年5月の世界最終予選を挙げていましたね。

「それまでの全日本の試合は、高校1年生の時と同じように、先輩たちにサポートしてもらいながら一生懸命やるだけでした。2003年はVリーグでの初めてのシーズンということもあり、もがき苦しんだシーズンでしたが、その上で全日本の戦いに臨むことができたことが大きかったと思います。最終予選を戦う中でチームも一試合ごとに結束していって、バレーボールの形が見えてきた大会だったんです。もちろんプレッシャーは大きかったんですけど、思いきりプレーできましたし、振り返ると『楽しめていたのかな』と」

2 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る