1964年、日本中を熱狂させた女子バレー「東洋の魔女」の本音 (2ページ目)

  • 中西美雁●文 text by Nakanishi Mikari
  • photo by Kyodo News

井戸川(旧姓・谷田)絹子さん。1964年東京五輪では全試合に出場(撮影:中西美雁)井戸川(旧姓・谷田)絹子さん。1964年東京五輪では全試合に出場(撮影:中西美雁)

 有名な回転レシーブは、起き上がりこぼしから発想を得たのだという。

「それまでは野球のスライディングみたいにシャーッと滑ってレシーブしていたんです。そのあとゆっくり起き上がる。9人制なら、レシーブを受けて転んでいても、あと8人もいるから何とかなるじゃないですか。でも6人制だと、自分で拾って、自分でアタックも打たないとダメ。レシーブを受けるたびに転んでいたら間に合わない。それで、倒れてもすぐ起き上がる起き上がりこぼしみたいなレシーブをやれ、何でもいいから体育館をゴロゴロ転がってすぐ起きるレシーブをしろと大松先生がおっしゃって」

 しかし、そんなことを言われても誰も見たことがないから、できっこない。「先生、やって見せてください!」と頼んでも「俺はせんでもできるからええのや。おまえらがやらないかんのや」と。

「河西(昌枝)さんがあとから、『(できるようになるまでには)1年くらいかかったわ』って言われたんですけど、それくらいでしたかね。そのうち神田(旧姓・松村)好子さんが何回も何回もやってみて、『こうしたら起きられるわよ!』って、一番早くできるようになって。すごかったですよ。ひざ・ひじ・骨盤・背中・肩。転んで床に触れるところはみんな青あざができちゃった。だから体育館に練習行くとき、座布団やらマフラーやらを集めて行なってました。何しに行くんやって笑われましたね。それを体中に巻き付けて練習して、だんだん何にもつけなくても起きられるようになって、それでやっと回転レシーブの完成でした」

 9人制が主流だった日本が、ヨーロッパで6人制ルールで試合をすると、オーバーハンドレシーブをかなり厳しくドリブルやホールディングの反則をとられ、「最初のうちは海外で試合をやっても、何してもすぐ反則をとられてしまうので、サーブはじっとして、グーで受けろとか、そんな感じでした」。それで急遽アンダーハンドレシーブに取り組み、さらに欧米を上回ることをしようとたどり着いたのが回転レシーブだったのだ。

 1960年のブラジル世界選手権に日紡貝塚チームで参戦したとき、ソ連に負けて銀メダルだったが「これなら、もう少し練習したら(ソ連にも)勝てるんじゃないかしら」と思ったと井戸川さんは語る。「打倒ソ連」「世界一をつかめ」はこの時から始まった。

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