【女子バレー】竹下佳江が語る「銅メダルまでの道のりと現在」 (2ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari
  • photo by Seki Megumi

――シドニー予選敗退後、一時バレー界からは引退されました。

竹下
 シドニーのことがあってから2年経ってやめたのは、いろんな事情があったから。チーム事情もあったので、自分だけではどうにもできない問題もあった。このときの2年間は義務感だけでバレーをしていました。心には大きな傷を負っているのに、チームに迷惑をかけたくないからコートに立つ。コートに立ったら勝たなくてはならない。苦しくてたまらなかった。オリンピックには未練がありましたけど、あのときは切り捨てるしかなかった。

――バレーから離れて、どんなことをして生きていこうと思っていたのですか。

竹下 一度バレーから離れようというのが一番で、具体的なビジョンはなかったです。世の中の人がみんな敵に見えるし、人間不信になったので、離れて時間をおきたかった。それまでは家族と暮らしていたり、NECの合宿所暮らしでしたから、初めて一人暮らしをしたので、新鮮でした。ハローワークにも通いました。

――確かに、当時は竹下選手への風当たりは相当なものだったと記憶しています。

竹下 そのときにそうやって批判的なことを言ってる人に対しても、私の中では恨んでいるわけではなかったです。だから、見返してやろうとも思わなかった。みんな人間なんで、そのときそのときの状況で言うことは変わってくる。仕事からいろんなことを書かなければならないでしょうし。

――そんな中で、V1に降格していたJTで復帰を決めた。

竹下 私は、私のことを純粋に必要としてくれる場所があって、そこに戻ることができました。JTの当時の部長さんと、一柳昇監督が何度も何度も私の所に来て、「うちでやってくれないか」と。最初は「うん」とは言えなかったのですが、本当に何度も足を運んでいただいた。それで、たとえ少ない人数でも、自分を求めてくれる人の期待に応えられるようにしようと思いました。だから、おふたりには、自分が閉ざしていたものを開いてもらったという意味ですごく感謝しています。

――代表にまた復帰されてアテネ五輪の出場権を獲得したときは?

竹下
 やっとオリンピックの舞台に立てるという思いもあったし、出場権を獲れなかったときのメンバーに対しても、何かしらの思いは伝えられることができたと思いました。

――アテネの切符を獲ったときは泣かれていましたね。

竹下 どういう感情で涙に変わったかは言うのが難しい。前のことがあったので、気持ちが高ぶったのはあります。


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