【男子バレー】春高バレー、ジャニーズとのコラボ...松平康隆のメディア戦略 (2ページ目)

  • 中西美雁●文 text by Nakanishi Mikari
  • 望月仁/アフロ●写真 photo by Mochizuki Hitoshi/AFLO

 フジテレビは民放各局の中で後発だったため、地方局のネットワーク組み上げが遅れていた。それを、この春高バレーを各地で中継していくことにより、徐々にネットワーク化が実現していったのである。

 松平は近年、「フジテレビは今、春高バレーを以前ほど大切に扱っていない気がする。春高バレーというのは、産経新聞の拡販の大きな手段だったし、フジテレビの地方局のネットワーク化にも大きく貢献したコンテンツなんだよ。もっと大事に扱ってくれたまえよ」と口を酸っぱくして川口にこぼしていた。創設された当時は、その他のコンテンツにも限りがあったせいか、朝から晩まで春高バレーを放映していたこともあった。まさに「バレー漬け」だったのである。

 この流れで1977年、男女ワールドカップを、フジテレビが日本バレーボール協会などと共催する形で日本に招致することとなった。もともとワールドカップは男子先行でスタートし、男女別々に各国持ち回りで開催されていた。だが1973年、チェコスロバキアで開催が予定されていた男子大会が、経済的な事情などで中止になってしまった。国際バレーボール連盟(FIVB)も、これには困り果てた。そこに名乗りを上げたのが、バレーボールコンテンツで大きく成長したフジサンケイグループだった。

 松平は当時、表だった役職には就いていなかったが、FIVBとフジサンケイグループのなかだちを務めた。そして、大きな国際大会を共催するときのアドバンテージとして、次回開催のファーストオプションと呼ばれる特典が付与された。これは、次回大会の開催について、独占的に第一番目に交渉する事ができるというものだ。1977年大会は女子が優勝、男子は準優勝と健闘し、視聴率もうなぎ登りだった。フジテレビは次回大会の開催も日本で行なう交渉をし、それが毎回行なわれるようになった。長らくFIVBの会長の座にあったルーベンス・アコスタは、「治安も環境もいいし、日本でやってくれるのが一番だ」と太鼓判を押した。

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