「第5のグランドスラム」で日本人ペアが快挙。世界屈指の強豪に成長

  • 内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki
  • photo by AFLO

 だが、東京でのオリンピック開催が決まったこともあり、「日本人として、オリンピックに出たい」との思いは日に日に強まった。最大の動機づけは、東京に住む祖父母に、晴れ舞台に立つ姿を見せたいとの願いである。

 そうして2年の大学生活を終えた時、彼女はまず、プロ転向の決断を下す。

 青山と会ったのは、それから10カ月ほど経った頃。WTAツアー出場の当落線上までランキングを上げた柴原は、出場の可能性にかけ、米国チャールストン開催の大会に向かった。

 この時は結果的に、本選には届かない。ただ、ホテルと会場間のシャトルバスで、毎日のように青山と顔を合わせる僥倖には恵まれた。

 かねてより青山を敬愛していた柴原は、「機会があったら、ダブルス組んでください!」と申し出る。しかし、その時は青山に「当面は決まったパートナーがいるから」と丁重に断られた。

 だが、それくらいであきらめはしない。以降も猛アタックをかけ、3カ月後のサンノゼで、ついに悲願のパートナーの座を射止めた。しかも、初めて組んだ大会で、いきなり準優勝の好成績。この時には、国籍も日本に変えていた。

 一方の青山は、柴原と顔を合わせたチャールストン大会で初戦敗退を喫している。

 長くダブルスの名手として活躍し、すでに8つのツタータイトルも手にしていた。だが、前年の2018年は無冠に終わっていた。

 2019年1月の全豪オープン・ダブルス2回戦で敗れた時は、「私のように体格やパワーで劣る選手は、もっと戦術と技術を磨かないと戦っていけない」と、会見の席で涙を流す。当時の彼女は、悲壮なまでのひっ迫感を背負ってコートに立っているようだった。

 8歳でUSTAに見出された柴原とは対照的に、青山は遅咲きの選手だと言えるだろう。

 ジュニア時代の目立った戦績はなく、「海外で試合をするという発想すらなかった」と言うほど、華やかな舞台とは無縁だった。地道な努力が花開き、とくにダブルスで頭角を現し始めたのは早稲田大学進学後。在学中に国内のITF 大会(下部大会)優勝などの実績を残し、2010年にプロに転向した。

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