車いすテニス王者・国枝慎吾と14年。丸山弘道コーチが描くリオでの夢 (2ページ目)

  • 荒木美晴●取材・文 text by Araki Miharu

――そこからテニスコーチに転職したきかっけは?

丸山 当時の仕事は充実していましたが、色々迷っていたタイミングでTTC(吉田記念テニス研修センター)の理事長から、「ジュニアの育成をやりたい」と声をかけられたことがテニス界に戻るきっかけです。ただ、すぐに結果が表れないジュニアの育成は、自分に向いていないと思っていました。結局1997年からコーチを本格的に始めました。

―― TTCで国枝選手と初めて出会った時の印象は?

丸山 私は一般のジュニアのコーチをしていたので、当初は接点がありませんでした。ある日、コーチの部屋に帰る途中の通路からインドアコートで車いすの少年の姿が見えました。テニスは下手でしたけど、本当に飛び跳ねるように動いていて、直感で「この子はトップレベルに行く」と感じました。それが17歳の(国枝)慎吾で、結局コーチ部屋に戻らず、練習が終わるのを待って、「ちょっと話したいことがあるんだけど」と私から声をかけました。

―― そこから国枝選手の指導がスタートしたのですね。この14年間を振り返って、おふたりにとってのターニングポイントはありましたか?

丸山 慎吾にとっては、2006年にメンタルトレーナーのアン・クインと出会ったことでしょう。マインドコントロールの仕方を覚えたことで、世界ランキング7位から、その年の末には3位に。また、ナンバー1になると誰の背中も見えなくなって、自分を見失う時期もありました。それでも、迷いながら「自分にチャレンジする」という答えを見つけたことが、その後の飛躍につながりましたよね。

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