「ラグビー界の太陽」平尾誠二が旅立って5年。大畑大介が今も人生の指針としている言葉 (3ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji
  • photo by AFLO

 W杯を戦うためにはどれだけの覚悟が必要か、ということもわかっていなかった。平尾さんが世界と戦うために用意したものをうまく自分のなかで処理できていなかった、というのが正直な思いです」

 その後、ふたりの関係は神戸製鋼でGM・総監督、選手という関係が続き、ともに全国社会人リーグからトップリーグを駆け抜けた。大畑氏にとって、やはり平尾氏は羅針盤であり続けた。

「神戸製鋼時代で一番覚えているのは、ウィングの14番からアウトサイドセンターの13番に転向した時のことです。平尾さんから『チームがもう一段、ステップアップするためには何かが必要だ。お前が13番になるのはどうや』と言われました。ただ、僕のなかでは代表として結果も出始めた頃で、14番を追求したかったので一度は断りました。

 だけど、平尾さんは『自分のなかのイメージを捨てろ。お前は内側の人間に使ってもらう選手かもしれないけど、内側に行ったからといって人を使う必要はない。大畑大介の13番になりなさい』と言われた時に、そういう考え方があるんだなと思った。

 それなら好きなことやろうと思って13番をやったら、思いのほかハマってしまって優勝に貢献できました。プレーの幅を広げることができたし、『ラグビーってこんなおもろいんや』と感じることができましたね」

---- 大畑さんにとって、平尾誠二という人物はどんな存在でしたか?

「平尾さんが言っていることは絶対、正しいと思っていました。それに、選手もある程度のレベルまで到達すると、周りの人は何も言ってくれなくなります。でも、平尾さんは僕が息継ぎする暇なく、ずっと刺激を与えてくれた存在でした。

 やはり一番、大きかったのは『お前、どうなりたいんや?』という言葉です。今でも指針となっている言葉で、今でも変わらず、自分のなかで『何ができるのか。自分がどうしたいか』ということは常に考えるようにしますね。

 平尾さんも自身がどうなりたいか、日本ラグビーや神戸製鋼をどうしたいのかなど、いろいろと考えて行動されていました。止まることなく常に物事を考えていたと思うんですよ。そういうことが『平尾イズム』だと思います」

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