命日に日本は南アフリカとの大一番。
平尾誠二にその光景を見せたかった

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO

 2019年10月20日、ワールドカップで初のベスト8入りを果たしたラグビー日本代表は、準決勝進出をかけて強豪・南アフリカ代表と対戦する。

 満員に膨れ上がった、東京スタジアム――。彼が生きていたら、その光景をどんな表情で眺めていただろうか。2016年10月20日、「ミスター・ラグビー」平尾誠二氏はこの世を去った。3年前のweb Sportivaに掲載した追悼コラムを再録する。

追悼・平尾誠二@前編

 日本ラグビー界の巨星が、またひとつ墜ちた――。

 花園優勝、大学選手権3連覇、日本選手権7連覇の偉業を次々と成し遂げる一方、当時史上最年少19歳4カ月で日本代表(ジャパン)に選出。1989年にはキャプテンとして強豪スコットランド代表を撃破し、1991年のワールドカップ初勝利にも貢献。ワールドカップ3大会連続出場を果たし、1999年大会では代表監督を務めるなど、日本ラグビー界を長きにわたってリードしてきた平尾誠二が、10月20日、53歳の若さで逝去した。

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日本ラグビー発展のために平尾誠二は全力を尽くしてきた日本ラグビー発展のために平尾誠二は全力を尽くしてきた「ミスター・ラグビー」

 そう呼ばれるのは、120年近い日本ラグビー史のなかでも、この男しかいない。1963年(昭和38年)生まれながら、早生まれ(1月21日)の彼は、1962年8月生まれの私と同学年。同じ高校ラガーマンとして......といっても、こちらは東京都大会で1回戦を突破できれば大喜びの超弱小高校だったが......自分たちが決して立てぬ花園の大舞台で光り輝くスターの眩しさにやられてから、ずっと彼を追い続けてきた。

 花園で伏見工業高を優勝に導いた平尾は、同志社大に進学。1年生から当然のようにレギュラーの座を掴むと、2年生から史上初の大学選手権3連覇の立役者となった。だが、日本選手権で松尾雄治率いる新日鉄釜石に挑みながら7連覇を許したノーサイドの瞬間、平尾は精根尽きながらも次の何かを見つめていた。

 大学卒業後、イギリス留学を経て神戸製鋼へ。社会人の名門チームでも、3年目の1988年からキャプテンとなった。遅れて社会人となり、スポーツライターとなった私は神戸製鋼の試合を取材し、囲みで話を聞くようになったが、単独インタビューをさせてもらったのは、1991年ワールドカップ日本代表メンバー発表の直前だった。

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