堀江翔太が苦難を乗り越え日本の
大金星に貢献「絶対勝てると信じてた」

  • 松瀬 学●文 text Matsuse Manabu
  • 齋藤龍太郎●写真 photo by Saito Ryutaro

 堀江は両PR(プロップ)をうまくリードした。左の稲垣啓太も、右の具智元も、相手の押しをうまく殺していた。

「シンさん(長谷川コーチ)が言っていることをやればできるんです。日本人って、スクラムが弱いと見られがちですけど、これで強さを証明できました。"シンさん、すごい"と書いておいてください」

 試合のアヤでいうと、4点リードの後半中盤、日本はアイルランドの猛攻を浴びた。ラインアウトからボールを回され、ゴール前のピンチがつづく。FWのサイド攻撃を執拗なタックルで防ぐ。あと5m、あと3m。そこで堀江が足元に飛び込んで相手LO(ロック)を倒し、FL(フランカー)姫野和樹がボールを奪いとろうとした。

 相手はボールを離さない。「ノット・リリース・ザ・ボール」の反則をもらった。PK(ペナルティー・キック)だ。日本はピンチを脱した。

 ラスト20分。相手の足はほとんど止まっていた。ハードワークの成果だろう、日本が走り勝った。後半、スタンドからはずっと「ニッポン・コール」が飛んでいた。

 堀江の奮闘には心を震わされた。タックル16回、ターンオーバー(相手ボールの奪取)1回、ボールキャリー13回でトータル28m。パス7回、キック1回。ピッチ上でのインタビューではこう、声を張り上げた。

「みなさんの声援のおかげで、最後の1cm、最後の1mm走ることができました」

 堀江の顔をよくみると、目が少し、赤かった。泣いたの?と聞いた。

「ええ、泣きました。久々に。一瞬だけ...」

 堀江は今年3月、ラグビーでもずっと応援してくれていた父を病気で亡くした。ノーサイドのあと、バックスタンドまで駆けていき、感慨深そうな顔で手を振っていた。そこには世話になった家族やトレーナーがいた。声が湿り気を帯びた。

「亡くなったおやじもスタンドの上で見ているかなと思って...」

 前回のラグビーW杯の南ア戦に続く、「金星」といっていい。日本ラグビーの歴史を変える勝利だった。堀江は言葉を足した。

「うれしいですね。2015年の思い出を、塗り替えた感じがして...」

 堀江はチャレンジングな人生を歩んできた。座右の銘が『勇気なくして栄光なし』。帝京大学を卒業して、2008年、三洋電機(現パナソニック)に進むと、ナンバー8からHOに転向した。直後、ニュージーランドにラグビー留学。日中は高校の寮の用務員をやり、そうじや雑務に走り回った。夜はカンタベリー・アカデミーで練習に励んだ。「オールブラックス(ニュージーランド代表)」になるのが夢だった。こう、漏らしたことがある。

「常に成長したかった。(留学した2年間は)うまくいかなかった思いがあるけれど、成功か失敗か、のちの行動で決まると思っています。僕は、自分の選ぶ道に後悔したくないです」

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