松島幸太朗は南アより桜ジャージーを選んだ。
「日本への気持ちは大きい」

  • 斉藤健仁●取材・文・撮影 text & photo by Saito Kenji

 一方、アタックはWTBとしてサイドに張ることが多い。だが、7月27日のフィジー代表戦ではステップとランの能力を生かし、中に切れ込むサインプレーでトライを奪取した。

 攻撃ではWTB、守備時はFB――。松島は与えられた役割を難なくこなしている。「(ジェイミー・ジャパンでの)WTBは、僕のポジションならけっこう自由が利く。FBだと固定される状況が多いので、今までよりやりやすい」。

 松島は桐蔭学園高時代、稀代のFBとして全国に名を轟かせた。2010年度の「花園」全国高校ラグビー大会の準決勝では100メートルの独走トライを決め、決勝ではFB藤田慶和(パナソニック)を擁した東福岡高と31−31で引き分け、母校に初の優勝(同時優勝)をもたらした。

 ところが高校卒業後、松島は他の有望選手と違う選択を決断する。強豪大のラグビー部からの誘いを断り、ジンバブエ出身のジャーナリストの父と5~6歳まで暮らした、生まれ故郷の南アフリカへ渡ったのだ。

 理由は、「スーパーラグビーに挑戦したい」から。桐蔭学園の藤原秀之監督に「(南アフリカ挑戦は)どうだ?」と問われ、その言葉が18歳の少年の背中を押した。

 松島はスーパーラグビーのシャークスの育成機関に入って3年間研鑽を積み、得意のランに磨きをかけた。ケガで苦しんだ時期もあったが、タックルで身体を張る力強さも増し、順当に成長曲線を描いていく。「南アフリカに行ったからこそ、たくさん経験もできた。僕のなかでは『デカい経験』。それがあったから、今ここ(日本代表)にいると思う」。

 2013年、松島はついにU20南アフリカ代表候補の合宿メンバーにも名を連ねることになる。だが、松島はその招集に応じることはなかった。

「試合に出てしまうと、日本代表になれなくなってしまう。日本代表への気持ちが大きかった」。高校日本代表で初めて桜のジャージーに袖を通し、幼少時に日本国籍を取得して日本人の母と日本に住んでいた松島は、日本代表を選んだ。

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