堀越正己が語る145点の悪夢。「ラグビーのことを話せなくなった」 (3ページ目)

  • 松瀬 学●文 text Matsuse Manabu
  • 齋藤龍太郎●写真 photo by Saito Ryutaro

――どんなジャパンでしたか。

「明るかったですよ。小藪さんが明るい性格だったので。戦い方も、"タテ・タテ・ヨコ"といった方針は明快で、あとは選手側に考えろという感じでした。僕は(スクラムから)ボールを出すところですから、タテ・タテ・ヨコってやりやすかったですね。トライをとったのは、割と一次攻撃でスパーンといったイメージが残っています」

――あの大会、グラウンド以外で一部の選手の規律が甘くなったと言われています。どうだったのでしょうか。

「僕からは何も言えません。ただ、チームとして、ひとつになっていたのかどうか...」

――日本は「世界」の厳しさを知ることになりました。

「いや、僕にとっては、初めて出場した1991年のワールドカップの方が世界を知る大会でした。初戦のスコットランド戦には出させてもらえませんでした。試合の前の日の練習では、(出られないとわかっていた)ショックからスパイクを持って行くのを忘れて、監督の宿澤さんに怒られました」

――次のアイルランド戦には先発出場して、日本代表は善戦しました。

「でも、人には言わなかったのですが、初めてコワいと感じた試合でした。ツーメン(二人並び)のラインアウトで相手が突っ込んできた時、僕は初めてコワいと思った記憶があるんです。その恐怖心から抜け出せなくて、実は4年ぐらい引きずりながらやっていました。もっとからだを張らなきゃいけないと」

――そして95年。1月に阪神淡路大震災があり、5月に南アフリカに乗り込んだわけですね。結局、3戦全敗で終わりました。そのワールドカップで学んだことは何だったのでしょうか。

「僕の中ではフィジカルの差を改めて感じた大会でした。できるだけ、高いレベルの試合をしないといけないとも感じました。やっぱり、実際、戦ってみないとわからないです。例えば、前回のワールドカップ(2015年イングランド大会)の南アフリカ戦、堀江(翔太)や田中(史朗)は最初のコンタクトで"これはイケる"と感じたそうです。それは、彼らがスーパーラグビーを経験しているからこその自信だったんでしょう。日本代表が力をつけていたのもありますが、経験のなかで成長を感じ取っていたのです」

――つまり、世界レベルの経験が大事だと。

「そうです。あの1995年のワールドカップのニュージーランド戦も、その前に何度か戦って、少しは慣れていたら、145点にはならなかったはずです」

――ニュージーランド戦のあと、日本代表の枕詞が屈辱の「145点」となりました。

「そうです。あのワールドカップ以降、大きな声でラグビーのことをしゃべれなくなりました。でも、前回大会の南アフリカ戦の大逆転勝利のおかげで、どこでも、ラグビーの話ができるようになったんです」

(つづく)

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