堀越正己が語る145点の悪夢。「ラグビーのことを話せなくなった」 (2ページ目)

  • 松瀬 学●文 text Matsuse Manabu
  • 齋藤龍太郎●写真 photo by Saito Ryutaro

――ニュージーランドは1次リーグ最終戦で、ショーン・フィッツパトリック主将やウイング(WTB)のジョナム・ロムーら主力を温存していました。だけど、控え主体のメンバーだからこそ、アピールしようと必死だったようです。許したトライが21本でした。

「もう、相手は強かった。トライはあの時、4点かな、5点かな」

――5点(92年より)になっていました。でも、フランカー(FL)梶原宏之さんが2トライとってくれました。あれは救いでしたね。

「あのランコースは、スクラムのダイレクトボールからの日本の得意コースだったんです。梶原さんの洞察力が生きた素晴らしいトライでした。あの2本のトライがなかったら...。ホント、ゼロでなくてよかったですね」

――試合後のミックスゾーンなど覚えていますか。どんなことを記者に話しましたか。

「"もう、僕みたいなちっちゃい(160cm)人間が(代表選手を)やっている時代じゃないかもしれない"って言った記憶があります。サイズで負けて、フィジカルで勝てなくて、"もうだめかもしれない"ってポロっと。でも、次のワールドカップを目指して頑張りましたが(1999年の第4回RWCの最終登録メンバーから漏れ、代表引退を決意)」

――そのニュージーランド戦の大敗で記憶が薄れていますが、堀越さんが先発した他の試合はどうでしたか。第1試合目のウェールズが10-57、第2試合目のアイルランドは28-50で連敗でした。記憶では、ひどい内容ではなかった印象ですが。

「そうなんです。でも、いろんな意味で揺れ動いていたのでしょうか。神戸製鋼でV7した後、震災(阪神淡路大震災)が起きて、僕はチームのキャプテンになりました。神戸の復興の力になりたい、ジャパンががんばることが力になると思いながら、南アフリカに入ったのを覚えています」

――ジャパンへの注目も上がっていたのでしょうか。

「小藪さん(修=当時の監督)が日本代表のステータスをあげてくれていた時期でした。待遇もよくなっていました。宿澤さん(広朗=1991年RWC監督/2006年死去)の時は飛行機もまだエコノミークラスで、僕はおっきな人に挟まれて座っていました。でも、南ア大会の時はビジネスになっていたと思います」

――あの時の日本代表は、1991年RWC終了後から代表を離れていた平尾誠二さん(2016年死去)が、開幕2カ月前の3月に復帰しました。5月に行なわれたテストマッチでルーマニアに快勝したことで、小藪監督は「タテ・タテ・ヨコ」を戦術の基本とし、「2勝」を目標に掲げていました。

「平尾さんが最後の最後にチームに入ってきて、与作さん(松尾勝博の愛称)と廣瀬(佳司)と3人のスタンドオフ体制になりました。僕としては、平尾さんが来てくれた安心感はありました。平尾さんはラクですよ。神鋼で(コンビを組んでいたのでプレースタイルなど)よくわかっているし、どこにいるかわかっているので。でも、平尾さんはやりづらかったんじゃないでしょうか。大学(同志社大)の先輩の監督に頼まれて戻ってきたけど、与作さんは大学の後輩だし、そのポジションをとることになるわけです。最終的には、(人のことより)自分は自分の仕事をしないといけないと考えていましたが」

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