吉田義人が誇ったW杯のBK陣
「平尾さん、朽木さんと阿吽の呼吸だった」

  • 松瀬 学●文 text Matsuse Manabu
  • 齋藤龍太郎●写真 photo by Saito Ryutaro

――チームとしてのこだわりを覚えてらっしゃいますか。

「宿澤ジャパンは、バックスもフォワードも、基本中の基本の走ることにこだわっていました。集まって散る集散では、グランドを広く使って外側にボールを運ぶというプランだった。それで、吉田義人を走らせる。宿澤さんはミーティングでそう、明確に言ってくれました。それは、しびれるよね。監督自ら、"吉田にボールを集めろ"って。それはもう、うれしかったですね」

――逆にプレッシャーは。

「ない。プレッシャーよりうれしさでした。走れば、トライを取りきる自信がありました」

――宿澤さんはチーム作りがうまかったですよね。ワールドカップ前に学生日本代表でアイルランドに遠征させたり、ジャパンAとしてジンバブエに遠征させたりしましたよね。

「それは感じました。やっぱり、物事を成功させるためのサクセスストーリーがあったんです。計画を立てる。勇気を持ってチャレンジしていく。計画、実行、検証、修正って。それをスタッフがしっかり回し、選手側にも明確に伝えてくれました。そういえば、学生日本代表の時は僕がキャプテンを務めさせてもらいました。5戦目の最後、アイルランド学生代表に勝ったんです。そのツアーが、初めてヨーロッパの選手が相手でした。アイルランドのチームってこんなチームなんだということを肌で感じることができました」

――どんなチームだと。

「いやもう、すごく基本に忠実なプレーをしてくるなって。それがすべてでした。派手さはないけど、すごく正確なプレーをしてきました。南半球はフィジカルとパワーでしょ。ヨーロッパの選手はジェントルマンシップを感じさせる。礼儀というか、品格を感じました。例えば、ハンドオフでは、ニュージーランドの選手は力でバーンといくけど、アイルランドの選手はタイミングよくちゃんとハンドオフといった感じだったんです」

――チーム作りで言えば、1989年のスコットランド戦から第2回W杯まで、メンバーはほぼ変わりませんでした。

「そうですね。確か、1989年のスコットランド戦のスタンドオフは青木(忍)さんで、ワールドカップでは松尾(勝博)さんでしたが、平尾さん、朽木(英次)さんのCTB(センター)陣は変わりませんでした」

――平尾さんに生前に話をうかがったら、バックスの呼吸の"吐く、吸う"まで一緒だったとおっしゃっていました。

「そうです。"阿吽(あうん)の呼吸"でした。もう、特別なコミュニケーションがいらないんですよ。要は何も口で言わなくても、インスピレーションが一緒なので。そんな感じでした。一応、サインは出ているけれど、ボール争奪戦から出てきたボールは、平尾さん、朽木さんを経由して、どういう形でくるか、全部感覚にしみこんでいました」

(つづく)

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