吉田義人が誇ったW杯のBK陣「平尾さん、朽木さんと阿吽の呼吸だった」 (3ページ目)

  • 松瀬 学●文 text Matsuse Manabu
  • 齋藤龍太郎●写真 photo by Saito Ryutaro

――宿澤ジャパンは、「チーム」を感じさせました。アジア・太平洋地区予選でチームの結束が強固になった印象でした。

「地区予選はきつかった。相手が西サモア(現サモア)でしょ、トンガでしょ、韓国でしょ。前年、日本はアジア大会の決勝で韓国に敗れていたんです。当時の韓国はめっちゃ強くて。セブンズ(7人制ラグビー)にも出ていた選手はすごく足がはやくて...。当時の日本代表は、スキルはあったけれど、そこまでのスピードを持っている選手はいなかったですね。地区予選、その韓国相手に完勝(26-10)しました。西サモアには敗れましたが、トンガには勝ちました(28-16)」

――あの時のチームは勝ち方が、ガチッとしていた印象です。

「宿澤さんの指導は明快でしたよね。ビジョンや世界観をしっかり持ってらっしゃいました。宿澤さんは、結局、日本ラグビーは世界のラグビー先進国と比較したら弱小国だ。ラグビーはコンタクトのある球技だから、パワーで負けてしまう。だから、我々日本人は世界を相手にこうやって戦うんだって明確に言い切ってくれたんです」

――それは、どんなラグビーですか。

「ひと言で言うと、テンポ、スピード、集散ですね。フォワード(FW)もバックスもボールを散らしていく。肝心のボール争奪戦においては、アタックで人数をかけてでもしっかりボールを出していく。はやいテンポで。ディフェンスにおいては、人数よりもタックル。あの当時は、やっぱり低く正確に一発で相手を倒せるタックル力を求められました」

――そういえば、代表選考も明快でした。タックルができない選手は代表には選ばないとおっしゃっていましたよね。

「そう、タックルがすごく重要でした。今でこそ、上にもいってボールをつぶしにいきますけど、当時は上にいったら外国人のパワーにやられるので、宿澤さんは相手をしっかり倒すため、明確に腰から下にいけと言っていました。接触プレーで一番多いプレーヤーが、CTB(センター)もそうだけど、フォワードにおいてはFLですよね。当時、タックルの強い梶原さんと中島修二さんを新しく起用されました。アイルランド戦は、LO(ロック)が林(敏之)さんと大八木(淳史)さんでいけると判断して、機動力があってサイズのあるエケロマ(ルアイウヒ)をLOからFLにポジションを変え、より攻撃的な布陣を敷いたのです」

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