林敏之が語るラグビーW杯大会。名選手揃いも「勝ち方を模索してた」 (3ページ目)

  • 松瀬 学●文 text Matsuse Manabu
  • 齋藤龍太郎●写真 photo by Saito Ryutaro

――あの時の日本代表は、林さん(LO=ロック、FL=フランカー)のほか、HO(フッカー)藤田剛、PR(プロップ)洞口孝治、LO大八木淳史、FLシナリ・ラトウ、ナンバー8千田美智仁(みちひと)、SO(スタンドオフ)平尾誠二、CTB(センター)朽木英次...。すごいメンバーがそろっていました。

「メンバーはともかく、今思うと、どう試合にピークを持って行くのかが、できていなかったねえ。ピーキングという言葉なんかなかった。ゲームフィットネスという概念自体もあまり、持っていなかった。だいたい、日本代表はそれまで、遠征して何試合か重ねながら、強くなっていって、最後にテストマッチを戦うパターンだった。最初のアメリカ戦にピークを持っていくなら、大会前に何試合かして、チームとして体験するべきだった。そんな発想はまったくなかったからね」

――合宿はやったんですか。

「やったよ、山梨県でやった。宿舎は公民館のようなところで。そこから、グラウンドまで、5kmくらいあったんだ。歩いていったり、ジョギングでいったり」

――初戦の米国戦。トライ数は同じながら、当時は絶対的なキッカーがおらず、ゴールキックの不調が響いた。そう記憶していますが。

「そうだね、残念ながら、キックの調子が悪くてさ。キックが入っていたら、また違う展開になった気がするけど。まあ、でも、そこは難しいわな」

――イングランド戦で大敗。日本の最終戦が優勝候補のオーストラリア戦でした。

「もう、最後に変な試合をしたら、日本に帰れないわって思っていた。(最後の豪州戦)覚えているのは、オーストラリアのLOにツインタワー(長身)がいたんだよ。2mクラスのLOが。それで、試合中、その中のひとりが退場したんだ。なぜ、倒れたんだろう、って思っていたら、タックルに行った時、僕の頭が彼のあごに当たっていたんだ。あとで知ったんだけど」

――WTB(ウイング)の沖土居稔が先制の40mロングPG(ペナルティーゴール)、後半には約50mのDG(ドロップゴール)を決めるなどしてスタンドを沸かせました。また、CTB朽木が鋭いステップで2トライを奪った。みんな、猛タックルで相手に襲い掛かりました。見ているこちらも胸が熱くなりました。でも、結局は23-42で敗れてしまいました。

「(豪州戦は)すべてを試合にぶつけられた。まあ、やるだけやったなと思った。1勝もできなかったけれど、ホッとして帰ってきた感じかな。当時は日本ラグビーの勝ち方が見えず、少し悶々(もんもん)としていたね。その後、日本代表はずっと、勝ち方を模索しているのが長く続いたんじゃないかな」

――ラグビーを取り巻く環境も激変していきます。

「そう、世界のラグビーが変わっていくよね。日本は世界でも特殊な企業アマだった。なんか、団長のカバンがだんだん膨らんでいくんだ。聞いたら、休業補償が出ているらしいぞって。他の国はみんな、ああいう風にお金をもらっているんだなって。他の国はアマチュア(の選手)が、それぞれ仕事を休んで、遠征に参加していたんだ。僕らはまあ、有給みたいな感じで会社から遠征してきていた。そんなお金(休業補償)があるなら、冗談で、みんなでゴールドコーストに土地を買おうとか言っていたね」

――初めてのワールドカップ、出場した収穫はありましたか。ワールドカップっていいものでしたか。

「それはもう。行ってよかった。素晴らしい体験だもん」

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