神戸製鋼がV。空白の2年を経た日本代表FBが平尾誠二に勝利を捧ぐ (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文・撮影 text & photo by Saito Kenji

 この日も「ひとりでいては寂しいだろう」と、神戸市・御影のクラブハウスにあった遺影はスタッフによって運ばれ、神戸製鋼のベンチからグラウンドの選手を見守った。そして表彰式でも、共同キャプテンの前川鐘平らが遺影を持って一緒に参加した。

「ミスターラグビー」と呼ばれた平尾さんの晩年の夢は、「神戸製鋼の優勝と、2019年ラグビーワールドカップの成功」。そのひとつが叶った瞬間だった。

 山中にとって、平尾さんは大の恩人だった。

 平尾さんはかつて、自分と同じSO(スタンドオフ)で身長188cmとサイズもあり、スキルに長けていた山中を熱心に神戸製鋼に勧誘した。また入団後も、山中に突然訪れた「空白の2年間」のときも、ずっと側で支え続けた。

 山中は大学4年時に日本代表初キャップを獲得するなど、将来を嘱望された逸材だった。何もなければ2011年、そして2015年のワールドカップに出場していた可能性も十分にあった......。

 だが、神戸製鋼に進んだ2011年4月、ワールドカップを控えた日本代表合宿に参加していたときのこと。山中に対してのドーピング検査において、ひげを伸ばすために使用した育毛剤が原因で陽性反応となる。山中は「若かったですね」と振り返るが、ラグビーの国際統括組織IRB(現・ワールドラグビー)から2年間の資格停止処分が下され、神戸製鋼ラグビー部をいったん退部することとなる。

 資格停止処分の期間、ジムで身体を鍛えることは問題ないが、練習も含めてラグビーをプレーすることは一切禁止。ボールに触れることもなく、スパイクを履くこともほとんどなかったという。自宅謹慎の後、山中は社員として神戸製鋼の総務部で2年間、働きながら処分解除を待った。

 そのとき、毎週のように山中をランチに誘ってくれたのが、当時神戸製鋼のゼネラルマネージャー兼総監督を務めていた平尾さんだ。「いつも気にかけてくれて、平尾さんのおごりでいろんなところにお昼を食べにいきました。『我慢していたら復帰できる』といつも声をかけてくれました」。平尾さんの言葉と妻の支えによって、山中は2年間、精神的にクサることなく耐え続けた。

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