10度制覇して卒業宣言。水谷隼が全日本卓球で示し続けた自らの進化 (3ページ目)

  • 城島充●文 text by Jojima Mitsuru
  • 中村博之●撮影 photo by Nakamura Hiroyuki

■変化をおそれず、進化を続ける絶対王者

 水谷が復活を印象づけたのも、やはり全日本の舞台だった。
 
 ロシア ・プレミアリーグのUMMCと契約、プロとして世界の強豪選手たちにもまれた水谷は体を作りなおし、邱建新(チュウ・ジェンシン)コーチをプライベートコーチとして招くと、それまで苦手にしていたチキータの習得に多くの時間をさいた。チキータからの速い攻撃を新たな武器として備えた水谷は、2014年1月の全日本で天皇杯を奪回すると、圧倒的な強さで再び連覇を重ねていったのである。

「僕を超える才能が出てこないと、打倒中国は果たせない」と公言し、後輩たちの奮起を促したのも、その絶対的な強さゆえに説得力があった。全日本に対する発言に変化が見られたのは、2017年1月の大会で歴代最多記録となる9度目の優勝を飾ったあとである。

「以前は自分が100%の力を出せば、確実に優勝できた。僕にとって全日本は自分自身との戦いだったんです。でも、今は100%の状態に仕上げても、僕を脅かす選手が出てきた。どこかで負けるタイミングがあると思うし、ちょっと楽になりたい気持ちも正直あります」

 この時にはもう、仙台から上京し、エリートアカデミーに入塾したばかりの少年にその牙城を崩されることを予感していたのかもしれない。実際、昨年の大会で張本に天皇杯を明け渡した時、水谷はさばさばとした表情で敗者の弁を語った。

「今日の張本が特別でなかったなら、何度やっても僕は勝てない。中国選手と同じくらいのレベル。彼が出てくる前にたくさん優勝しておいてよかった」

 だが、それが彼独得のユーモアだったことも今大会で証明されたのである。

 準々決勝で水谷にストレートで敗れた丹羽は、「全日本の時の水谷さんは、他の試合の時と全然違う。その気迫にこちらが受け身になってしまった」と語ったが、技術的に特筆すべきことは、プレーの引き出しの多さである。

 丸善インテックアリーナのコートで私たちが目撃したのは、10年前とも5年前とも、そして1年前とも違う、プレーの幅をさらに広げた水谷隼の姿だった。

 大島との決勝は、その集大成ともいえた。パワーで勝る大島が得意のフォアハンドを振ってきても、水谷は以前のように台から離れることはなく、フォアのカウンターを返して会場をどよめかせた。「ストップにもいろんな回転があって対応できなかった」と敗者が振り返ったように、台上の技術で圧倒すると、得意のラリー戦でも優位に立ち、大島のチキータを狙って"三球目攻撃(自分のサーブの種類によって相手のレシーブを予測し、それを狙って攻撃する戦術)"を仕掛けることもあった。

「若い人たちの卓球に、僕たちの世代は対応できない」

 優勝会見で水谷はそんな表現で全日本の厳しさに言及したが、彼が天才たるゆえんは、挫折と向き合うたびに新たな技術を習得し、プレースタイルを変える覚悟と勇気を持って進化を続けてきたことである。

 張本は今、誰よりも深くそのことを理解しているのではないか。

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