2019.01.29

10度制覇して卒業宣言。水谷隼が全日本卓球で示し続けた自らの進化

  • 城島充●文 text by Jojima Mitsuru
  • 中村博之●撮影 photo by Nakamura Hiroyuki

■全日本にかけてきた水谷の思い

「みんなと仲良くするのは今日までです。明日から全日本が始まるまで、僕から個人的な連絡は一切取りません」

 水谷からそんな言葉を聞いたのは、5連覇がかかる全日本選手権を1カ月後に控えた2010年12月のことだった。卓球専門誌の編集者や男子のトップ選手たちと一緒に夕食をとったあと、最寄りの駅で別れる際、水谷は筆者の耳元でそう言ったのだ。

「僕が一番、全日本のことを考えているし、その価値を理解していますから」と。

 全日本が始まると、食事もとれなくなるほどナーバスになる――。彼に親しい関係者からそんな話を聞いたのも同じ頃である。思い入れが強いゆえに、6連覇を吉村真晴(T.T彩たま)に阻まれた時の落胆ぶりも激しかった。

「もし来年優勝できたとしても、単なる6度目の優勝じゃないですか。僕は連覇を続けて、絶対に破られない記録を全日本の歴史に刻みたかったんです」

 王座から陥落した後、人と会うのも避けていたという水谷は電話インタビューでそう失意を語ったが、その声が聞き取りにくいほど小さかったことを覚えている。

 水谷の苦難はそれで終わらなかった。

 2012年の夏に開催されたロンドン五輪ではシングルスは4回戦で敗退、団体戦も準々決勝で香港に敗れた。五輪後はルールで禁止されている補助剤を世界のトップ選手たちの多くが不正使用している事実を告発。国際大会への出場をボイコットし、ラケットを持たない日が4カ月以上も続いた。復帰後すぐに迎えた2013年の全日本選手権では丹羽孝希(琉球アスティーダ)に破れ、2年連続で後輩に天皇杯を譲った。その後の世界選手権パリ大会では初の初戦敗退という屈辱も味わった。
 
 そして、こうした結果以上に水谷を追い詰めたのは、当時の卓球界でささやかれていたこんな批評を耳にした時ではなかったか。

「水谷の卓球は美しいが、攻めが遅い。中国に勝てるのは、丹羽のような前陣速攻のより攻撃的なスタイルだ」

 振り返れば、負の連鎖に飲み込まれたこの時こそ、”日本卓球界の至宝”と呼ばれた男の分岐点だった。

「すべてが悪い方向へ流れていって、卓球をやめようかと考えたこともありました」

 当時の取材ノートに刻まれている水谷の述懐は、こう続いている。

「でも、ぎりぎりのところで、このままだと一生後悔することに気づいたんです。自分がもっとできることを証明しないと、卓球に人生をかけた意味がない。そのためには、新しい環境で自分の卓球を変えるしかない。そう覚悟を決めて、2013年9月からロシアリーグに挑戦したんです。うまくいかない時は、楽な方向ばかりに逃げていたような気がします」