ドリームチーム誕生秘話。「奇跡の12人」が集結した、知られざる真実 (4ページ目)

  • 青木崇●取材・文 text by Aoki Takashi
  • photo by AFLO

 1992年6月、シカゴ・ブルズの2連覇でNBAファイナルが終了し、ドリームチームはサンディエゴに集結して金メダル奪回へ向けてキャンプをスタートさせようとしていた。だが、この時期になっても不安視する声は囁かれていた。

 まずは、スコッティ・ピッペン。ドリームチームのメンバーが発表された頃から、「オールスター選出は1990年の1度だけ」と、彼の選出を疑問視し実績不十分と見る人間が多かったからだ。

 一方、NBA経験のないクリスチャン・レイトナー(当時デューク大)も、スーパースター軍団からの孤立が心配された。そして35歳と最年長のバードも腰の故障に苦しみ、1991−92シーズンを37試合も欠場したことで、現役引退の噂が絶えなかった。

 しかしピッペンについて、デイリーは誰よりもその実力を買っていた。1991年のプレーオフでブルズがピストンズを倒した時のプレーに感銘し、選考委員会に候補を提出した際、スモールフォワードのナンバー1と位置づけた。

 デイリーはピッペンをこう絶賛する。「ジョーダンと一緒にプレーすることで、彼は自信をつけていった。クイックネスが抜群で、シュート力もある。さらにサイズがあることで、複数のポジションをこなせる。しかもディフェンスだって非常にすばらしいじゃないか」

 事実、ジョン・ストックトンがオリンピック予選中に足を故障して欠場を強いられた際、ピッペンはマジックの控えとしてポイントガードでプレーしていた。この万能さこそが、ピッペン選出の正当性を十分に証明するものだった。

 懸念されたレイトナーの孤立は、バークレーの存在によって解消された。

 過去に「アイザイアのルームメイトになれるのは俺だけだ」と公言していたバークレーは、シュート練習で常にレイトナーとペアを組み、きついジョークを浴びせながらも親交を深めていった。予選でノーマークながらシュートを打たなかったりすると、「シュートを打たんか!」と檄を飛ばすのは、常にバークレーだった。

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