【NBA】「嫌われ者」から「名脇役」へ。進化が止まらないJ・J・レディック (3ページ目)

  • 宮地陽子●取材・文 text by Miyaji Yoko  photo by AFLO

 大学2年のとき、NCAAトーナメントでファイナル4まで進みながら2点差でコネチカット大に敗れたことをきっかけに、レディックは自分のあり方を見つめ直したという。バスケットボールに対してより真剣に取り組むようになり、食事を含めた生活習慣を変え、体重を減らし、精神的にも成熟した。4年の時には平均26.8得点、フィールドゴール成功率47%、3ポイントシュート成功率42.1%の活躍で、全米の大学ナンバーワン選手に与えられる「ネイスミス賞」も受賞。まさしく、鷲として羽ばたいたのだった。

 ただ、大学でそれだけ実績を挙げても、NBAでの活躍が保証されているわけではない。実際、大学のころにレディックは、「自分は海外リーグでプレーすることになる」と思い、イタリア語を学んでいたという。2006年のドラフト1巡目・全体11位でオーランド・マジックから指名されたが、NBAの世界に入った後も、決してすべてがバラ色ではなかった。

 最初のうちはあまり出番もなく、大学時代の嫌われ者は、嫌われるほど目立つ活躍をする場面すらなかった。そしてNBA7シーズン目、少しずつ出番が増えてきたところでミルウォーキー・バックスへトレード。ジャーニーマン街道まっしぐら、にも思えた。

 しかしその数ヶ月後、レディックはプロとしての自分の居場所を見つけた。サイン&トレードでロサンゼルス・クリッパーズに移籍し、ドック・リバース・ヘッドコーチからスターターに抜擢されたのだ。レディックが以前から映像で見て研究していたお手本のひとり、レイ・アレン(SG)をコーチしたことがあるリバースのもと、スクリーンを使って常に動き回りながらシュートを放つスタイルを開花させた。

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