アイルトン・セナ没後28年。ブラジル人記者が振り返るその知られざる素顔 (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

プロスト、FIAとのバトルの顛末とは

 しかし、パレストル会長はセナのこの行為が危険であったと、セナを失格にした。セナとプロストはこの時、シーズン優勝を争っていたが、このペナルティのせいで結局はプロストが優勝した。セナはバレストル会長の裁定に反発、同じフランス人のプロストを優遇したとして裁判にまで持ち込み、ここにFIAとの戦争が勃発した。

 その後、最終戦のオーストラリアGPには出場したものの、バレストルはセナのドライビングが危険であると、彼のスーパーライセンスを停止。そのためセナはF1を運転できなくなった。セナは激怒し「バレストルはレースを操っている、八百長をしている」と発言。バレストルはセナが公に謝罪しない限りはライセンスを再発行しないとし、事態はどんどんこじれていった。

 困ったマクラーレンのトップ、ロン・デニスは、セナに謝罪の手紙を書くよう勧めたが、彼は拒否した。90年の2月17日までに謝罪がなければ、この年のセナのF1参戦はないと言われた。実際、90年の最初のドライバーリストにはセナの名前は載っていない。

 結局、セナの名前はリストに戻った。裏で何があったかはわからない。両者ともこの件については口をつぐんでいた。一説によれば、セナがバレストルに謝罪のFAXを送ったとも言われている。だが、実はそこには謝罪の言葉はなく、ただ「こんなことをしていてもどちらの得にもならない」と書いてあったというのだ。

 当時のブラジルの新聞各紙は「F1の勝利、すべてはF1のため」とこの合意を報道した。ちなみに復活した90年、セナは優勝を果たした。鈴鹿ではまたもプロストをはじき出したが、この時は何もおとがめはなかった。のちにセナは「これはプロストとバレストルへの報復だ」と言っている。

 敵はほかにもいた。先のエピソードからもわかるとおり、永遠のライバル、プロストのほかにネルソン・ピケもセナを毛嫌いし、同国人であるにもかかわらず、ふたりは一切、言葉を交わさなかった。ピケはことあるごとに「セナは偽物だ」などと発言していた。

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