アイルトン・セナ没後28年。ブラジル人記者が振り返るその知られざる素顔

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

アイルトン・セナ、人間味あふれる伝説(前編)

 アイルトン・セナ。F1ワールドチャンピオン3回、優勝41回、ポールポジション65回。歴史に残る名ドライバーだった。その彼が34歳で亡くなったのは1994年5月1日。私もあの日、イモラのサーキットにいて、セナの生存を願い、祈るような気持ちで立っていたひとりだった。

 セナはブラジルの英雄である。彼が亡くなった時、ブラジル中が悲しみ、その葬儀は国葬扱いだった。数々の栄光に悲劇的な死が重なり、時が経つにつれ、彼は聖人君子のように思われるようになった。しかし、セナは決して完全無欠のヒーローではなかった。

1994年5月1日に亡くなったF1ドライバー、アイルトン・セナ photo by AFLO1994年5月1日に亡くなったF1ドライバー、アイルトン・セナ photo by AFLOこの記事に関連する写真を見る セナは皆が想像するような、陽気なブラジル人とはかけ離れていた。とても思索的で、哲学的だったとも言える。他の人間とは異なる視線を持っていた。

 セナとは何度か話をしたことがあるが、そのインタビューは他の誰のものとも違っていた。彼は質問に対し、シンプルに「Yes」「 No」で答えることはほとんどなかった。そんなところはサッカー界のジョゼップ・グアルディオラとどこか似ているかもしれない。会話の途中で突然、黙ったかと思うと、何か全然別のことを語り出したりすることもしばしばだった。途中から彼のほうから質問を発し、どちらがインタビューされているのかわからないこともあった。とにかく一筋縄ではいかない性格だった。

「神のことは信じているが、僕に信仰はない」と言っていた。実際、彼が十字をきったり、勝利を神に捧げたりするのを見たことはない。周囲の人はそんな彼のことを不可解な人物として、どこか敬遠しているようなところがあった。

 セナほど敵が多かったドライバーもいない。

 セナの一番の敵は1979年から1993年までFIA(国際自動車連盟)のトップを務めたジャン=マリー・バレストルだったろう。ことの発端は1989年の日本GPだ。ポールポジションでスタートしたマクラーレン・ホンダのセナだったが、すぐに同じチームのアラン・プロストに抜かれる。47周目のシケインでセナがプロストの内側に飛び込みマシンが接触。プロストはそこでリタイアしたが、セナはマーシャルにマシンを押させ、どうにか再スタート。レースに戻ると、奇跡のようにトップでレースを終えた。

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