演歌のプリンスはレーサーとの二刀流。中澤卓也は常在戦場で夢を目指す (4ページ目)

  • 川原田 剛●構成 text by Kawarada Tsuyoshi
  • 村上庄吾●撮影 photo by Murakami Shogo

 僕の原動力になっているのは、やっぱり15歳の時の挫折です。小学3年、9歳でレーシングカートを始めた時から、プロのレーシングドライバーになることしか考えていませんでした。高校は全国で初めてモータースポーツ科を設置した地元の私立開志学園高校に第1期生として進学。そこで入門用フォーミュラカーレース、スーパーFJに参戦するメンバーに選抜され、期待に胸を膨らませていました。「いよいよ4輪デビューか。結果を残してステップアップできれば、夢のスーパーGTにデビューできるかもしれない......」と。しかし、現実は甘くなかった。

 レースに出場する際には、マシンの管理費やエントリーフィーなどは学校で負担してくれますが、ヘルメットやスーツなどの備品、遠征費、クラッシュ時の修理代などは自分で払わなければなりません。そのため個人スポンサーを見つける必要がありましたが、そこでつまずいてしまった。自分の力がどこまで通用するかわからないまま、資金の問題で夢を諦めなければならなかった。その現実を当時はすんなりと受け入れられず、自分自身の心がグチャグチャになり、無気力な生活を1年くらい送っていました。

 あの頃は子どもで自分のことしか考えられませんでしたが、両親も相当悔しかったはず。特に父親はメカニックとして僕が9歳の時からずっと一緒に戦っていました。週5日は会社で仕事して、週末は僕のレースや練習に付き合って、走った翌日はマシンのメンテナンスをしていました。カート時代はもちろんですが、私立高校のモータースポーツ科に入学させるために銀行から融資を受けてまで背中を押してくれました。それなのに僕が突然、レースをやめてしまった。父親とはケンカになり、家庭内がギクシャクしたこともありました。

 その後、17歳の時、祖母の勧めで出場した地元開催の「NHK のど自慢」をきっかけに、現在のレコード会社の方に声をかけてもらい、歌手の世界に入りました。両親は歌手デビューした時にももちろん喜んでくれましたが、今になってレースへ復帰したことにすごく喜んでいます。やっぱり心の中にはレーシングドライバーにしたかったとの思いが絶対にあるはず。その夢を叶えて、もっと喜ばせてあげたい。スーパーGTのような格式あるレースに出場し、結果を残すことが一番だと思っています。

 ただレース活動を再開したら、「歌がダメになった」と言われたら、それは最低だと思います。歌手としてもトップを目指したいし、レーシングドライバーとしてもしっかりと結果を残したい。レーサーと歌手を両立させ、どっちも本気でやりたい。それが今の僕の夢であり、一番の親孝行だと思っています。

【profile】 
中澤卓也 なかざわ・たくや 
1995年、新潟県長岡市生まれ。15歳までプロのレーサーを目指した後、17歳で『NHK のど自慢』に出場し、見事に「今週のチャンピオン」に輝く。放送を見ていたレコード会社からスカウトされ、音楽の道へ。2017年1月に「青いダイヤモンド」でデビュー。同年の日本レコード大賞新人賞受賞。21年1月には6枚目のシングル「約束」をリリースし、次世代の演歌・歌謡界を担う若手として期待されている。憧れのドライバーは「ミスターGT」の異名を持つ脇阪寿一(現スーパーGT・TGR Team SARD監督)。

4 / 4

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る