佐藤琢磨×鈴木亜久里、F1で夢のタッグ。オールジャパン体制にファン熱狂 (3ページ目)

  • 米家峰起●取材・文 text by Yoneya Mineoki
  • 桜井淳雄●撮影 photo by Sakurai Atsuo(BOOZY.CO)

 これにより、ホンダV8エンジンとホンダ独自のクイックシフト機構を持つギアボックス内部機構をSA05よりも数cm低くマウントすることができ、低重心化とクイックシフトの恩恵を存分に受けることができるようになった。マシン各部の見直しによって、約20kgの軽量化も果たした。

 結果、スーパーアグリはミッドランドと同等の速さを発揮し始め、カラーリングも日本を意識した唐草模様のようなデザインに。よりスタイリッシュに生まれ変わった。

 第14戦トルコGPではモノコックを改修し、フロントサスペンションのマウント位置を高めてモノコック下の空間を大きくしたSA06Bへと進化。マシンの学習が進んだことで、スーパーアグリと琢磨、そしてSA06とともにF1デビューを果たした山本左近のふたりはめきめきとパフォーマンスを上げていった。

 最終戦ブラジルGPではトロロッソと同等以上の走りを見せるに至り、琢磨が10位でフィニッシュ。山本も全体7位の自己ベストラップを記録するなど、翌年のさらなる飛躍を予見させた。

 翌2007年は、ホンダの栃木研究所からさらなるバックアップを受けて、ホンダのRA106をベースとしたマシンSA07を独自製作。開幕戦オーストラリアGPから琢磨がQ3進出の快走を演じる。そして第4戦スペインGPでは8位でチーム初入賞を果たし、第6戦カナダGPではマクラーレンのフェルナンド・アロンソをぶち抜いて6位フィニッシュを果たすなど、大きな躍進を遂げた。

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 一方、2000年からのホンダの第3期F1活動は、フルコンストラクターとしての参戦という当初の理念は白紙とされ、B・A・Rへのエンジン供給と車体の共同開発といういびつな形でスタートする。年を経るごとに、B・A・Rの株式取得によってB・A・Rホンダ、そしてホンダへとその名を変えていった。

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