アイルトン・セナをF1王者に導いた名車。根底にある本田宗一郎の言葉 (2ページ目)

  • 米家峰起●取材・文 text by Yoneya Mineoki
  • photo by Getty Images

 ホンダも、そのマシンコンセプトに合わせた。クランクシャフトセンターを28mmも下げ、クラッチとフライホイールの小径化もあって、全高は50mm以上も低くコンパクトなRA168Eエンジンを作り上げた。

 さらにターボの過給圧は、1987年の4バールから2.5バールへと大幅に規制が強化された。燃料規制と相まって、エンジンメーカーにとっては極めて厳しい条件となった。

 だが、ほかのターボエンジンメーカーがこの規制適応に苦戦するなか、ホンダは新開発の低燃費ハイパフォーマンス技術を投入して、これに対応してみせた。コンパクトで低ドラッグな車体が燃費に貢献したことは言うまでもなく、まさしくマシンパッケージとしての勝利だった。

 1988年かぎりでのターボ禁止も含めた"ホンダいじめ"とも言えるレギュレーション改正に対して、ホンダ内では反発の声やF1からの撤退を訴える声もあった。しかし、ホンダ創業者・本田宗一郎が「それはホンダだけなのか? 全員が同じ条件で戦うならいいじゃないか。それで勝ってこそ、ヨーロッパの人たちに評価されるじゃないか」と技術者たちを鼓舞したという。

 その根底にあったのは、自分たちが挑戦者であり、技術と結果でそれを認めさせるんだというチャレンジスピリットだ。

 MP4/4が完成したのは開幕戦のわずか11日前であり、開幕前テストの最終日にシェイクダウンを行なったのみで開幕戦ブラジルGPに臨まなければならなかった。それでもMP4/4の完成度は極めて高く、周回遅れとの接触で第12戦イタリアGPの勝利を失ったのを除けば16戦15勝。実質的にすべてのレースで圧倒的な速さを見せた。

 この年のマクラーレンにはデビュー5年目のアイルトン・セナが加入し、それまでロータスで見せていた速さの片鱗を完全に開花させた。

 それまでのセナは、予選を中心に光る速さを見せ、時にはマシンの実力以上の速さで勝利を挙げてきた。1987年にはセナの切望を受けるかたちでロータスがホンダ・エンジンを獲得し、セナの走りを目の当たりにしたホンダもその才能に惚れ込み、ホンダとセナの相思相愛関係が始まった。

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