ホンダF1初のチャンピオン獲得。驚異の1500馬力を誇った最速マシン (2ページ目)

  • 米家峰起●取材・文 text by Yoneya Mineoki
  • photo by Getty Images

 しかし、ホンダはF1という世界で本気で勝ちを狙うには不十分であると判断。その年の最終戦に名門ウイリアムズとのタッグを開始する。そして翌1984年、ダラスで行なわれた第9戦アメリカGPで、ケケ・ロズベルグのドライブによって復帰後初優勝を飾った。

 ホンダのV6ターボエンジンは、F2では他を圧倒するほどの性能を見せていた。しかし、パワーこそ優れていたものの、ターボラグがひどく、トラブルも多かった。このダラスでの優勝は、酷暑のなかで他車の脱落によるところも大きかった。

 しかし、翌年にはストロークを長くする代わりにピストンを90mmから82mmまで小径化し、ピストンにかかる負荷を小さくしたことで、異常燃焼の発生や燃焼室周りのトラブルを抑えることに成功。異常燃焼を抑えるために余分に噴射していた燃料の消費も抑えられ、結果的に燃費が向上するという副産物も得られた。

 当時まだ下っ端だった浅木のようなエンジニアの「ピストンを小さくすればいいじゃないか」という声が上に届きやすかったり、上司に否定されても信念を持ったエンジニアたちが"課外活動"でテストエンジンを作って効果を実証してしまったり、清々しいまでの血気盛んな技術屋魂が炸裂し、それが結果を掴み取るという時代だった。

 そんなホンダのRA165Eエンジンを搭載した1985年。ウイリアムズ初のフルカーボンモノコックマシンFW10は、シーズン終盤戦に3連勝を果たす。そして1986年には、車体・エンジンともにひとつの完成形とも言えるFW11・RA166Eへと昇華した。

 さらにスモールボア化が進められたRA166Eは、排気量1Lあたり最大1000馬力を発したとされた。つまり、燃料制限のない予選では1500馬力近いパワーを生み出したと言われている。

 これを受けてFIAは、決勝での燃料量を220Lから195Lに制限。だが、ホンダは導入した双方向テレメトリーシステムでエンジン状況をリアルタイムで確認することによって、燃費規定に苦しめられるどころかしっかりと味方につけて勝利を重ねた。

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