玉田誠は亡き友の誕生日にMotoGP初優勝。最高の贈り物を病床の母へ届けた (4ページ目)

  • 西村章●取材・文 text by Nishimura Akira
  • 竹内秀信●撮影 photo by Takeuchi Hidenobu

 その心中に期すものを、玉田は2週間後の第12戦日本GPで爆発させた。ツインリンクもてぎの観衆を前に、土曜の予選でポールポジションを獲得。日曜の決勝では、ロッシに6秒差を開いて独走優勝を成し遂げた。ちなみに、このときの玉田を最後に、日本人選手は誰もMotoGPクラスで優勝をしていない。

 シーズン最終戦のバレンシアGPでも、2位表彰台を獲得。翌年は有力選手のひとりと目されるようになった玉田だが、05年にはふたつの大きな変化があった。ひとつは、チームのメインスポンサーに日本の光学機器メーカー、コニカミノルタを迎えたこと。もうひとつは、タイヤブランドがブリヂストンからミシュランへ変更になったことだった。このシーズンは、前年のようにさまざまな条件がピタリと噛み合うことがなく、厳しい内容のレースが続いた。それでも、秋の日本GPではなんとか3位を獲得した。

 だが、06年はさらに苦戦を強いられ、07年はダンロップタイヤを使用するヤマハサテライトチームへ移籍。結果から言えば、まさに「禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし」ということわざどおりのシーズンを過ごすことになった。

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 その後、スーパーバイク選手権(SBK)で2シーズンを過ごした玉田は、やがて活動の舞台をアジアに移した。後進の育成を兼ねて、選手としてアジアロードレースに参戦。それらの活動も縁をつないで、現在はアジア各国の選手やスタッフで構成するチームを束ね、監督を務めている。ここ数年の鈴鹿8耐では、このアジア多国籍混成チームでほぼ毎年トップ10フィニッシュを果たしている。

「自分をコントロールするんじゃなくて他人をマネジメントするわけだから、これは本当に難しいです。『自分の場合はこうだった』なんて言っても通用しないし、人も違えば国籍も文化も異なるわけだから」

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