「いぶし銀ライダー」は就活中。玄人受けするドヴィツィオーゾの魅力 (3ページ目)

  • 西村章●取材・文 text by Nishimura Akira
  • 竹内秀信●写真 photo by Takeuchi Hidenobu

 このホンダファクトリー時代のドヴィツィオーゾは、ペドロサやストーナーに比べると、ホンダからの評価はやや低かったようにも見えた。決して冷遇されていたわけではない。しかし、優勝の実績はウェットコンディションを巧みに乗り切った09年イギリスGPの1回のみ。2位や3位は何度か獲得しているものの、当たり前のようにトップ争いを続けるペドロサやストーナーと比較すると、ドヴィツィオーゾはやや慎重に過ぎる印象を内部からも持たれていたのではないか。

 実際に、この時期のドヴィツィオーゾに単独インタビューを行なった際の印象をいえば、どちらかといえば無難で優等生的な受け答えに終始していた感がある。後年の彼に特徴的な鋭い観察眼や分析的な批評的言辞として結実するほど、彼の性質はまだ熟成していなかったということなのだろう。この頃の彼の特徴はむしろ、神経質な性格という現れ方をすることが多かったようにも思える。

 12年にはヤマハサテライトチームへ移籍し、13年にドゥカティへ移った。バレンティーノ・ロッシが去った後のドゥカティは、いわば自分たちのアイデンティティをもう一度立て直さなければならない状況に追い込まれていた。ドヴィツィオーゾの加入に加え、この年の秋からジジ・ダッリーニャという狡智(こうち)に長けた技術者をアプリリアから招へいして技術部門のトップに据えたことにより、ドゥカティは自分たちの新たな「核」を得ることになった。

 また、この時期のMotoGPは、共通ECU(Electronic Control Unit:電子制御システム)の導入を巡ってマシンの技術仕様が大きく揺れ動いていた時期でもある。ダッリーニャはそのルールの仕組みを巧みに利用し、ファクトリーチームでありながらファクトリー扱いされない規則が適用される方法を採用することで、マシン開発を有利に進めていった。

 ドヴィツィオーゾが、明快かつ分析的でありながら含蓄のある言葉を発するようになったのも、この時期からだ。ドゥカティのバイク作りは独特で、エンジンには吸排気バルブを機械式操作で強制開閉する「デスモドロミック機構」を一貫して採用している。「デスモセディチ」というドゥカティのマシン名はこの機構が由来になっているが、その名前に引っかけて、ドヴィツィオーゾはいつしか「DesmoDovi(デスモドビ)」という韻を踏んだ愛称で呼ばれるようにもなった。

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