天才ケーシー・ストーナーの歩み。「よく転ぶライダー」から王者に

  • 西村章●取材・文 text by Nishimura Akira
  • 竹内秀信●撮影 photo by Takeuchi Hidenobu

 レースを終えたストーナーが「勝つ自信はあったんだけど、まさかジョージが最後にアウト側から仕掛けてくるとは思わなかった」と述べた時、「ジョージ」とは誰のことを話しているのかと混乱しかけたが、数瞬後にホルヘ(Jorge)の文字を英語読みしているのだとわかり、妙に得心した。当時のストーナーは17歳、ロレンソは16歳。ロレンソはまだ母国語のスペイン語以外はあまり話せなかった。当時おそらく彼ら二人の間にまだ交流はなく、記者会見などでストーナーは紳士的にロレンソをファーストネームで呼んでみた、という程度の間柄だったのだろう。

 翌戦のパシフィックGP(ツインリンクもてぎ)でも2位表彰台を獲得したストーナーは、最終戦のバレンシアGPで初優勝。ランキングは8位で終えた。04年も125ccに継続参戦し、05年に250ccへ復帰。02年と違って充分な経験と実力を身に付けており、ペドロサとチャンピオン争いを繰り広げた。しかし、シーズン終盤の地元オーストラリアGP決勝レースで転倒したストーナーは、王座の可能性が消え、年間タイトルはペドロサが獲得した。

 05年の250ccチャンピオンとなったペドロサとランキング2位のストーナーは、06年に最高峰のMotoGPクラスへステップアップした。共にホンダ陣営ながら、ペドロサはファクトリーチームのレプソル・ホンダ、ストーナーはサテライトチームのLCRからの参戦だった。ペドロサは開幕戦で2位表彰台を獲得し、一方のストーナーは第2戦カタールGPで大いに存在感を発揮した。

 カタールGPは当時、現在のようなナイトレースではなく、他のレース同様に日中のイベントとして開催されていた。ストーナーがヨーロッパからカタールに向かうフライトにトラブルが生じ、ドーハ空港へ到着したのは金曜午前のフリープラクティスのわずか1時間前。即座にサーキットへ駆け込みレザースーツに着替え、文字どおりバイクに飛び乗って走行に臨んだ。

 にもかかわらず、このセッションで最速タイムを記録。以後のセッションでもトップタイムを続々と記録し、ポールポジションを獲得した。フレディ・スペンサーに次ぐ史上2番目の最年少ポール記録(20歳173日)だった。

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