みんなに愛されたニッキー・ヘイデンが遺したレース愛あふれる言葉 (4ページ目)

  • 西村章●取材・文 text by Nishimura Akira
  • 竹内秀信●撮影 photo by Takeuchi Hidenobu

 この年限りでヘイデンはドゥカティファクトリーを去り、14年にホンダのサテライトチームへ移籍した。当時、MotoGPの技術規則が大きく揺れていた時期で、ヘイデンが加入したチームのマシンはファクトリースペックではなく、それよりも数段落ちる仕様と電子制御を搭載した「オープンカテゴリー」と呼ばれる区分のバイクだった。ファクトリー勢に比して苦戦を強いられるのは明らかだったが、さらにシーズン中、負傷にも見舞われ、数戦で欠場を余儀なくされた。年間ランキングは16位で、翌年も状況は改善せず20位だった。

 そしてヘイデンは13年間過ごしたMotoGPを去った。新たな戦いの場は、量産車をベースとしてレース用改造を施した車両で戦うSBK(スーパーバイク世界選手権)で、ホンダ系のトップチームに所属。久しぶりの優勝や3レースで表彰台に上がる活躍を見せた。このSBKに参戦する一方で、MotoGPのホンダ系選手が負傷欠場した際には、「スーパーサブ」として代役参戦する役割も任されていた。

 16年MotoGP第14戦アラゴンGPでは、負傷したジャック・ミラーの代役でエストレージャガリシア・0,0・マーク・VDSのレザースーツに身を包み、第16戦オーストラリアGPではかつてのチームメイトであるダニ・ペドロサの代役としてレプソル・ホンダチームのマシンにまたがってレースに臨んだ。

 かつて無垢だった若者は、人生の紆余曲折を経験し、すでに35歳になっていた。それでも彼がピットボックスに現われると、相変わらず昔のように、その場に光が射すような明るくポジティブな雰囲気に包まれた。

 世界最高峰の場でチャンピオンを争い、長年にわたってさまざまなライバルたちと競い合った経験をもつトップライダーならば、ある程度の人間関係の軋轢や毀誉褒貶(きよほうへん)はあって当然だろう。だが、ヘイデンに対する悪口雑言は、口さがない人が多いグランプリパドックでも、まず聞いたことがない。

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